エスプレッシーヴォ
ビジネスホテルのシングルルームには窓際に小さなテーブルとイスが一つあるだけで、瑛子はすわり心地が良いとは言えないイスに座り和樹はベッドに腰掛けてこちらを向いて、それぞれ缶ビールを手に持って軽く乾杯をして再び飲み始める。

「おまえは」

和樹が言う。おまえ、という言葉なのに響きは冷たくない。御茶ノ水のビストロの夜以来、彼は私を瑛子と呼ばない。あの夜、何気なく名前を呼ばないでと言ったことを覚えているのだと思う。ガサツそうなくせに、そういう気の遣い方をするところが妙に丁寧で、博樹と同じ家で育った人間なのだと思う。

「俺と結婚すればよかったんだよ」

缶ビールをテーブルに置いて彼はじっと瑛子を見た。

「俺は次男だし、おまえの家の病院だって継げるし、数字にも強いから経営とかもいけるほうだし」

瑛子は視線を缶に移す。俯いてしまうと次の言葉に詰まってしまいそうだった。

「でも、父は、病院を何が何でも残したいと思っているわけじゃないわ。柔軟なの。」
「それでも」

和樹が言う。それでも、というのは、瑛子の言葉、病院を残すこと、後継者のことについてに対してだ。和樹はあざ笑うかのように言う。

「どうせみんな必要に応じて結婚しているだけだし」
「みんなって誰?うちの両親もお見合いだけど、でもきちんと好き合って結婚してるわ」

瑛子が言うと和樹は結婚しなきゃいけないって思ってみんな結婚してるんだから同じじゃない。でも俺はいいよ、次男だもんと笑った。

「だいたい、いつもふられてるしね。俺の子どもが欲しいなんて昔の女もいないし。」
「自慢にならない気がするけど」

時計を見るとまだ時刻は日付を越えていなかった。でもいつもならベッドに入ろうかという時間だ。博樹はお風呂から上がって髪を乾かしている頃だろうか。週末の夜だからと読みかけの小説でも読んでいるかもしれない。
空になったアルミの缶を右手でクシャっと軽く潰して、笑いながら和樹は言う。

「どうする、もう1本?飲んでもいいし、眠ければ遠慮なく言って。」

こういう他人に対する和樹の丁寧な笑顔を見ると、瑛子は博樹を思い浮かべる。博樹の笑顔とよく似すぎていてる。それはまるで患者さんに接するように優しくて、自分もそういう扱いをされているのではないかと思ってしまう。仕事として優しく接するように、必要で与える笑顔のように。親のすすめで会った女と結婚するように。
ねえ、義務で一緒にいてくれてるの?きっと目の前にいても聞くことはできない。
和樹と自分の目の前にある缶ビールとチューハイの残りを確認して、「飲んじゃいましょう」と瑛子は笑った。

「月曜からは出勤しなきゃなんでしょう?研修医ってすごいハードだって聞くわ」

いくらか心配そうに和樹の顔を見ながらいうと、彼は平気そうな顔であっけらかんと言う。

「場所とか、先生によるんだよ。俺は楽なほう。兄貴は苦労したかもね」

和樹の口から出る兄貴という言葉は投げやりなようで、でも少しアクセントがある。彼にとって特別なのだと改めて思う。彼は兄を好きではないと言っていたが、裏を返せば無関心になればいのだ。

「そう、でもありがとう。貴重な休日を一緒にこんなところまで付き合ってくれて」
「別に。単なる好奇心だよ」

好奇心。それは何に対してだろう。博樹のこと、博樹と桜井さんの関係のこと、博樹と瑛子の関係のこと。張り巡らされた蜘蛛の意図のように人と人との相関図を頭に描いていると和樹が言った。

「とにかく兄貴は努力が足りない」

瑛子は首を傾げる。努力?仕事のこと?何だろう。発言が唐突で、目的語がないコメントは不可解なのだ。

「時間なんて作ろうとすれば作れるんだよ。相手を知ろうとか、自分を知って欲しいとか、単純に一緒に時間を共有するだけでなくて、お互いが近づくための努力が足りないんだって、俺は思う」

それだけ言うと、彼は二本目の右手のビールをぐっと喉に流し込んだ。
義理の弟から心配されていると思うと、はたから見ても不安定な夫婦なんだろうかと心配になる。いや、和樹だからそう見えるのかもしれない。両親にも友人にも、他の人には何一つネガティブな話はしていないのだから。でも、だったら余計なことを言わずにかき乱さないで、そっと見守るとか、放っておけないならさりげなくサポートするとかしてくれればいいのにと勝手なことを思ってしまう。

「由香のときだってそうだ。山形に帰らなきゃいけない彼女とも続けていける方法はあったはずなのに。兄貴はうちの病院にこだわりがあるわけでもないんだし、一人っ子でもない。あ、言っておくけど俺はうちの病院が欲しいわけじゃないから。でも兄貴にはそういう、本気で物事にぶつかる努力が足りないように見える。執着してないっていうか、欲がないっていうか。わからないけど」

確かに、医者になって稼ごうとか、名誉を受けたいとかそういうのもない。欲がない、執着していない。
それは自分に対してもそうかもしれない。それは決して悪いことではないが、和樹の言葉が大きな意味を持ってまるで錘のようにズシリと胸の奥に沈んでくる。その錘を引き上げてくれる人がいるとしたら、それは他でもない博樹しかいないのだ。

「本人の性格もあるわよ。博樹って、初孫ですごいかわいがられたって聞いたわ。そういうのも影響してそう」
「どうせ俺はひねくれた次男だよ」
「次男は負けず嫌いで頑張り屋さんが多いのよ」

そう言って瑛子が微笑むと和樹は横を向いて呆れたように、でも少し照れているのを誤魔化すように笑った。その様子を見ながら、1人娘は寂しがり屋、と瑛子は自分のことを思った。競うものもない、与えられるまま、手に入るもの、必要なものをそろえてゆくだけ。でも義務じゃない。自分の意思で誰かのそばにいたい。

飲むものがなくなって、時計が時刻一時に近付いた頃、和樹が一つ大きなあくびをしたので瑛子は言った。

「疲れたわよね。寝ましょう。ゆっくり休んでね。おやすみなさい」

そう言ってテーブルの上に置いていた、ウンともスンとも言わないスマートフォンと隣の部屋のカードキーを持って瑛子は椅子から立ち上がり、その部屋から出ようとしたときだった。
背後から全身を包まれる。ドアノブにかけた手を動かすことはできなくないのに、動けなくて、そのまま身動きができないでいると、耳元にすっかり馴染あるものとなった声が響いた。

「俺と結婚すればよかったのに」

それはよく聞くともう聞き流せないと思うほど彼の兄と似たトーン。声の魔術も合わさって、温かくて力強いその腕を振りほどくことができなかった。その夜の星空がかつて見たことがないほど輝いていたのは大きなビルが乱立していないからだろうか。この夜だからだろうか。

博樹とデートした帰り道の夜に人生で一番星空が眩しく見えた日が遠くに感じられて、出会ってからの日々のあらゆる感情が押し寄せてくると涙が零れそうだった。

博樹とケンカをしたことはない。泣いているところを見せたことも見せられたこともない。こんなふうに求められたことも、そのための努力もなかった、と思った。お互いに。
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