エスプレッシーヴォ

午前十時。熱いシャワーを浴びて、髪を乾かしながらコーヒーを飲んでいると呼び鈴が鳴る。

テレビや音楽の音のない室内に響くピンポーンという音は地震速報のように胸をざわつかせる。瑛子だろうか。わずかな期待を胸に慌ててインターフォンを取ると、モニターには見知らぬ中年女性…ではなく、瑛子の母親の姿があった。きちんとセットされたボブの髪の毛、丁寧に塗られた赤い口紅。紺色のシャツに控え目なダイヤモンドのネックレスが光る。なぜ瑛子だと思ったのだろう。瑛子だったら鍵を持っているから自分で入ってくるはずだ。そう思いながら、瑛子の母親という急な来客に心臓はかつてないほど強く脈を打っていた。

慌てて鏡の前で最低限の身だしなみを整える。玄関を開けると瑛子より少し小柄な彼女の母親が微笑んだ。
玄関を開けたのが博樹だったことに瑛子の母親は「あら?」と不思議そうに目を丸くした。

「娘はいないのかしら?朝一番なら家にいるかと思って連絡しないで来ちゃったのよね。少しだけどお土産があって、頂き物ですけど」

おすそわけ、と差し出された紙袋からは甘い香りがして、中を見るとマンゴーが三玉入っていた。宮崎産と堂々としたゴールドのシールが貼られていて、その黄色い大きな滴型の果実はつやつやと明るく光っていた。

「瑛子さんは友達から急に誘われたとかで、朝早く出かけていきました。夜には戻ると思いますが」

すらすらと言葉が出る自分に驚く。そしてとっさに出た嘘に申し訳なく思う気持ちもあり、よろしければ少しお茶でもと心にもないことを言った。本当は少しでもこの嘘がばれないように、一刻も早く帰って欲しいのだが、そんな博樹の想いとは裏腹に、瑛子の母親はじゃあ一杯だけと家に上がった。

玄関から入ってく生暖かい風は湿気を含んでおり、気持ち悪かった。真夏とはまた違った不快さがある。気温が上がり始めるこの頃も熱中症に注意しなければならない。冷たいお茶のほうがいいだろうか。でもペットボトルのお茶より、きちんとお湯を沸かして入れたほうがよさそうだ。いや、デロンギ任せのコーヒーのほうがいいのだろうか。迷っている博樹に気付いた瑛子の母親が「そこに出ているペットボトルのお茶をください。氷はけっこうです」と笑いながら言った。流し台の上に置かれた2Lの飲みかけの緑茶は堂々としていて、博樹は思わず恥ずかしくなり「すみません」と頭をかいた。かなわないなと思う。年の功だけでなく、こういう気遣いをしてくれるのは人柄だろう。涼しそうなガラスの冷茶グラスにお茶を注いで持って行くと、「ありがとうね」と丁寧に微笑んだ。お茶出しなどまるでなれていない自分を気遣う優しさが温かすぎた。中身や雰囲気はもちろん、顔立ちも瑛子はどちらかというとこの母親に似ている。

「瑛子さんは料理が上手なので、僕は幸せです。バランスもきちんと考えてくれてるし、器や季節感もこだわってくれて、帰るのが楽しみです。」

嘘やお世辞ではない。瑛子は本当に立派に専業主婦というものをしてくれている。医者同士で結婚している同僚もいて、それはそれで幸せそうではあるが、僕は僕の知らないこと、例えば音楽や作曲家のことなどを教えてくれて、いつも家で温かい料理を用意して待っていてくれる瑛子がいることに感謝していた。とたんにピアノの椅子に座って顔だけ僕に向けて「おかえりなさい」と笑顔で言ってくれる瑛子の姿が浮かぶ。

そう、それならよかったわ。煮つけとか炊き込みご飯とかいろいろレシピを持たせたの。働く男性は身体が資本ですものね。そう言って瑛子の母は微笑んだ。つられるように博樹も微笑みながら言う。

「初めて会ったときに、おいしく食べて栄養を摂ることは大切だと言ってくれたことは今でも忘れられないです。」

わずかに照れたように言いながら、お見合いの日の瑛子を思い出す。ちょうど一年くらい前だった。梅雨の蒸し暑い日、瑛子は爽やかな水色のワンピースを着ていた。今より少し短かかったセミロングの髪の毛を耳にかけて、ベージュを中心としたナチュラルメイクの中で淡くオレンジがかったピンク色の口紅と一つ一つに嬉しそうに笑うその口元が印象的だった。あの頃から自分たちの関係は大きく進展したはずなのにどうしたらもっと近くにいけるのか。お互いが遠い。

「でもあなた消化器科の医者だから結婚したわけじゃないのよ」

その言葉はまるで瑛子の口から言われたかと思うほど、声も話し方も似ていた。顔を上げると半分瑛子に似た50代の女性が微笑んでいた。
一瞬の動揺の後、きっと瑛子だって瑛子の両親だって医者なら何でもよかったのだろう、と思う。しかしそんなまるで胸の内を読んだかのように瑛子の母親は言った。

「確かに親同士のつながりですけど、決して私たちが条件や何かで決めたのではないのよ。娘があなたを選び、決めたことなの。断る理由がなかったからではなくて、確かにあなたを選んだの。きっと私たちが何をどういっても、こうなっていたはず。こんなこと母親の私が言うのはおかしいけど、瑛子はあなただから結婚したのだと覚えていてね」

母親のおせっかいだけど、ふふふ。
そう言って瑛子によく似た目を細めて笑った。それはこの不安な週末の博樹の心をいくらか楽にしてくれるようだったが、それでもやっぱり心は穏やかではなかった。本当に必要なのは瑛子の母親の言葉ではない。瑛子自身の言葉でなければどんなことでも意味がないのだ。


それからすぐのことだった。電話が鳴ったのは。
僕は慌てて携帯電話を見る。しかしディスプレイに表示された名前は期待していたものとは違った。中川だったのだ。

「なんでまた日曜日に」

博樹が言うと、すでに飲んでいるのかという陽気さで中川は言った。

「日曜日だからじゃん。今から出て来れない?飲もう。夕方まで軽く飲みたいんだ」
「昼間から」
「いいじゃん、夜に働くこともあるんだから昼から飲んだって」

彼の言い訳はいつも上手で、それならそうかと納得したくなる。どちらにしても今日この家で1人で瑛子を待ち続けるのはつらかったかもしれない。
もしも自分がいない間に瑛子が帰ってきたらとも思ったが、中川が「1時間、せいぜい2時間かな。1軒だけ」と言うので、それならいいかと身支度を整えて銀座に向かった。

銀座六丁目の大通りから少し入った待ち合わせのカフェバーのオープンテラスで彼はビールを飲んでいた。

「この蒸し暑い六月に外」
「ビールがうまくなるじゃん」

男性同士の客もいるものの、周囲にはカップル、女性同士、外国人のグループなどが大半の席を埋めていた。ざわつきはあるものの、居心地のよい雰囲気はビールも会話も進みそうな店内である。

「久しぶりかも、中川からの急な呼び出し」

座って注文したビールを待ちつつ博樹が言った。中川は先に頼んでいたビールをゴクリと大きく一口飲んだ。彼ほど太陽の下でビールが似合う男を僕は身近で知らない。

「だって、お前、見合いだデートだ結婚だって忙しそうだったんだもん」
「そうだっけ。でも別に中川とは病院で頻繁に顔を合わせてたし」
「いやいや、こうやって外で男同士ビール飲むのとは違うのよ。ま、とりあえず乾杯」

そう言ってウェイターが持って来た博樹のビールとグラスを傾けた。

「聞きたかったんだよ、博樹の話。結婚してどうよ。」

率直な質問に、しかも今日のタイミングに博樹は苦笑いする。少し前ならもっとポジティブな返しができたかもしれない。

「中川は?」

さりげなく話題を彼のことに移すと、まじめな顔つきで言った。

「仕事のことを考えると今はまだって思うけどさ。彼女が急かしてくるんだよ。女は出産のリミットがあるからって言うけど、まだ三十歳だぜ?でもそれを言っちゃいけないんだよなーって思いながら、俺も迷ってる。」
「そう、そうだね」

出産のリミット、という言葉を聞いて桜井のことを思い出す。もちろん、妊娠も出産も年齢だけの問題ではないし、女性だけの問題でもない。

「でも博樹が楽しそうにしてるから意外だったけど、それだけ結婚っていいのかなって思ったんだ。お前にとっては結婚って義務なのかなって思ってたから。」

博樹は思わず目を丸くした。楽しそうにみえたのかと思った。そして引っかかったのは「義務」だ。いつだったかそのキーワードを以前も彼の口から聞いた気がする。それを聞くと中川は言った。

「なんていうのかな。義務教育で小学校から中学校に上がるだろう。それから高校受験して大学受験するように、就職するように、結婚もその流れでしてるように見えた。1人目の見合い相手で速攻で結婚するほどあせる年齢でもないし、結婚がすごくしたかったってタイプでもないじゃん。結婚をするものと思ってしたんじゃないかなって」
「そういうわけじゃないよ」

続けて彼が何かを言おうとしていたが、それを遮るように博樹は言った。

「知らないこともまだたくさんあるけど、結婚して一緒に住むようになってからの時間を振り返ると、充実してた。ちゃんと楽しかったよ。」
「なんで過去形なんだよ。大丈夫か」

目の前の男は不可解と言う顔をしてビールのグラスを手に持った。真似するように博樹もグラスを持ち、手を止めて言った。

「大丈夫だよ。いつだって何があるかわからないけど、大丈夫なように努力していかなきゃなんだ、本当はきっと」

それは自分に対する激励でも慰めでもあった。

それからオリーブとピクルスをつまみにビールを二杯飲み、この後彼女とディナーの約束があるという中川と別れた。せっかく銀座に来たものの1人で行きたい場所などなかった。
瑛子と一緒だったら、キルフェボンでタルトでも買っただろうか。木村屋で明日の朝食のパンを買ったかもしれない。ディナーを食べていこうかと店を探したかもしれない。
でも1人になれば銀座なんてただのグレーのビルが立ち並ぶ寂しい街に見える。

研修医を終えてからの進路を由香と話し合ったとき、前向きな決断のつもりだった。でも彼女と別れたことは決して平気ではなかった。生きていてまた会えるはずなのに本当はつらい。愛おしさと比例する苦しさ。誰かを想うことは貴重だが、苦しみもある。だからと言って中途半端な気持ちで誰かを求められるほど僕は器用ではないし、いい加減にもなれない。

瑛子のことも好きになればなるほどつらい想いを味わうことは想像できた。でも向き合うならまっすぐがいい。適当な気持ちで彼女を求めることはできない。僕はもう戻ることはできない。いい関係でいようと適度な距離で気を遣って生活することが正しいことではないのだ。

最低限の買い物を済ませて家につくと時刻は午後六時を過ぎているのに、外はまだ明るかった。
今は一番昼が長い時期だった。夕焼けの差し込む真っ赤なリビング。博樹はそのままにしていた二つのグラスを洗いながら、目に映るあらゆること、そろいの食器やカトラリー、グラス、瑛子の選んだクロス、冷蔵庫に貼られた瑛子の雑穀ご飯を炊くときの水との割合のメモ。何もかもに瑛子を感じた。

疑う余地もないくらいたった一人を望んでいた。音のない室内は無機質で空気も乾燥している。今朝、水をあげたはずの窓際のアイビーもドラセナも元気なく俯いているように見える。ペアのはずのグラスの片割れを見て思う。たった一日その顔を見ない、声を聞かないだけで胸が痛いものか。
会いたい。触れたい。できれば同じ気持ちでいて欲しい。
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