エスプレッシーヴォ

ホテルの朝は夢の中ではないだろうかと思うほど現実味がない。
真っ白な天井、壁紙、シーツ。分厚いカーテンの隙間から光が見えて朝を確認する。
硬いシングルベッドの上で見慣れない景色に瑛子は昨日の長い一日を思い出す。

そう、山形牛の鉄板焼きを食べワインを飲み、コンビニで買ったビールやチューハイを夫の弟と飲んだ。時刻はまだ午前七時半。一つ大きなあくびをして、やっぱりまだ眠くてもう一度口を大きく開けて息を吸い込む。隣の部屋の彼はおそらくまだ深い眠りについていることだろう。そして東京のマンションにいる博樹もまだ寝ているはずだ。
水をを口に入れると、妙に甘く感じた。体がミネラルを欲していた。飲みすぎたか。隣の部屋で義弟は大丈夫だろうか。
そんな心配は無用だったらしく、午後八時半前に、彼は瑛子の部屋のドアを叩いた。

「このホテルの朝食はほとんど地元のものらしくてすごいうまいらしい!食べないと損だ!」

そう言って元気よくまぶしい笑顔を見せてくれた和樹はいつもと変わりなかった。むしろ少しハイなようにも見える。
それから今日の天気のこと、おいしい山形の食材のことを話しながら朝食を済ませて、チェックアウトの時間を確認した。

ホテルを出るとまた新しい一日が始まった。見知らぬ町並みのはずなのに、たった一晩過ごしただけでどこか落ち着くようにも感じるから不思議なものだ。
少し一緒にいるだけで理解できるような気がする。気がするだけだけども、それでも貴重な記憶となって心に刻まれる。

バスターミナルに向かう途中二、三歩前を和樹が歩いてゆく姿が博樹と重なった。広い肩幅、細身で、しっかりした骨格。まっすぐ歩く足取り。
振り向いて後ろを確認する博樹。ごめんね、歩くのが速かったね、という申し訳なさそうな顔。
そう言ってくれている気がして「ごめんね、歩くのが遅くて」と申し訳なさそうに微笑んだ自分。
言葉がなくても理解し合ってるなんてとんでもないことだ。
言葉があってもすべてを理解しているわけでなくて、それでも、と思ったら言葉が口をついて出た。

「やっぱり、帰る」

ここまで来て。自分でもそう思いながら、言葉が先に出ていた。本心だ。
その瑛子の言葉に和樹は目を丸くして、言うならば驚いているというのが一番しっくりくるような顔をして瑛子を見た。そんな様子にも瑛子は表情を変えない。

「桜井由香さんと会う理由はないわ」

瑛子は笑って言った。別の感情を誤魔化すためではない、本当に笑っていたのだ。和樹は顔をしかめる。
ごめんね、もし約束しているのだったら、丁重にお断りして。それか、和樹ひとりで行ってきて。私は駅で待ってるから。それで山形のお土産を買って帰りましょう。新幹線の時間までどこか観光してもいいわ。そうだ、さくらんぼの季節よね。この辺りで新鮮なもの売ってないのかしら。
とたんに観光客のように明るい顔を見せて駅に足を向ける瑛子に和樹が言った。

「なんでだよ」

振り向くと和樹はまるで何か苦いものでも食べたかのように顔をしかめていた。

「何でそんなに割り切れるんだよ。お前にとって旦那って何だよ。なんでそんなに兄貴のこと許せるんだよ。」

その表情は瑛子を憐れむようでもあり、兄を憎むようでもあった。長年積もった感情をぶつけるような強い眼差しに、瑛子はわずかに笑ってしまった。和樹のことがおかしかったのではなく、その場を和ませたかったのでもない。思い込みだとしても誰に何を言われても博樹を好きだと思ったから。わずかに俯いてアスファルトのグレーを見ながら瑛子が言う。

「許すとか、そういうことじゃないの。なんていうの、変な気持ちよ。気にならないわけじゃない。その桜井さんがこれまで博樹とどんな会話ややりとりをして、どんな関係で、二人の間に自分の知らない何があるのか知りたいって思った。でもそれは、博樹から聞くことなんだわ。前に、和樹は私に博樹のことを信じ切っているって私に言ったでしょう?私は信じ切っているほど知らないと言った。それは間違いないわ。今でも知らないことがたくさんよ。でも、私は博樹の口から出た言葉を信じることしかできないの。それだけなんだわ。」

そう言うと、和樹は何も言わず、険しい表情のまま瑛子を見つめた。駅に向かうバスや車のエンジン音や通り過ぎてゆく中年女性たちのおしゃべりが妙に大きく響く。十数秒の妙に長い沈黙の後和樹が今にも泣きそうに、でも決して泣くことはないまま言った。

「ばかだよ、おまえ。我慢してばかりに見えるよ。もっと楽できる方法があるのに、なんで兄貴なんだよ。俺と結婚すればよかったのに。」

昨日も言ったけど、と小声で付け足したとき、ああ、覚えていたんだなと思ったら胸が痛かった。同時に昨夜の彼の温かさを思い出す。瞬時に振りほどくことはできなかった。

「俺は絶対に兄貴みたいに曖昧なこともしないし、他人を傷つけないための嘘もつかない。好きだと思ったら全力で努力するのに。なんでだよ。ほんのちょっと先に生まれた兄貴を選ぶんだよ」

和樹は素直で正直で、言葉できちんと伝えてくれる。態度で表してくれる。それは自分にも博樹にもない和樹のすばらしさだ。和樹のことも私は失いたくない。

帰りの新幹線は静かだった。和樹は窓の外に顔を向けて、景色を眺めているのか眠っているのかという感じだった。ほとんど会話のないまま大宮まで尽いたときだった。彼が大きなあくびを一つしたのが見えて東京駅までいよいよあと20分というときに、瑛子が言った。

「ねえ、桜井さんのこと、好きだったんでしょう?」

窓際の席を陣取って、ひたすら外の景色を見ていた和樹は新幹線に乗ってから初めてこちらに顔を向けて、でも何も言わなかった。

「否定しないところを見ると、アタリ?」

無言で窓の外を見続ける和樹に、ふふふと瑛子は笑った。

「博樹が好きだから博樹の隣にいる女の人に惹かれちゃうのね。きっと。知ってる?好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だって」
「うるさいな。違うよ、放っておいてくれ」

一瞬だけ睨むように瑛子を見ると、彼は再び窓の外を見つめていた。そんな彼の横顔、耳元を隣の席から見ながら言った。本当の気持ちはわからない。でも彼が違うというのなら、違うということにする。疑うことに意味はないと、わかるつもりだったから。
少しの沈黙の後、瑛子は言った。

「本当は怖い気持ちもなくなかった。私、何もできないんだもの。桜井さんみたいに医者として誰かの役に立てる仕事も、たくさん勉強してきたつもりの音楽でたくさんの人を感動させることも、一人娘として家を守ることも、本当に何もできていない。情けなくなるの。たいしたことできないって、それは本当のことで、でも、それでも誰かと比べても意味がないんだって思ったから。私だけに意味のあることがあるはずなの。きっと、博樹にとっても」

きっと、なんだけど。そう言いながら、今の自分が昨日の自分より少しだけ魅力的になっていたらいいなと思った。
だからね、和樹にも特別なことがあるみたいに、たった一人だけいるのよ。この人しかいないと思う人がね。喜びも苦しみもすべてを教えてくれる人が和樹にもいるの。
和樹は再び窓の外を見ていて、何も言わなくて、それは瑛子の独り言のようだった。

喜びであり苦しみである。どこかで聞いたことのある愛の言葉はこの胸を締め付けるようで、温かくしてくれるようである。想えば想うほどに喜びだけでなく苦しみも増す。それでも恋を知らないまま死ぬよりいい。

夕焼けが差し込んできて、窓のほうに顔を向けると、この二日間見慣れ彼の後頭部の向こうにはビルが立ち並んですっかり都会の景色だった。いつもなら東京駅のマンスリースイーツも気になるところをすぐに乗り換えて家に向かった。今、自分が帰るべき場所に。
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