エスプレッシーヴォ
午後四時まで飲んだビールが体から抜けてきて薄暗くなってきた頃だった。食欲など特にないが時刻に合わせていつもそうしているように過ごすことが自分を落ち着かせる。
瑛子はまだ帰ってこない。それでもプレートとグラスを二つずつ並べようとしていたときだった。
ガチャン、と大きな音がして手にお皿を持ったまま開けっ放しになっていたリビングの扉の向こうを見る。もしかして、いや、間違いない。ほとんど確信に満ちた希望に溢れた気持ちで玄関のドアが開くのを見ていた。瑛子だった。一日ちょっと見なかったその顔が懐かしく思えるほど、長い長い時間会っていなかった。
まるで映画のように周囲は暗くて、瑛子だけがまぶしく光って見えた。
僕が「おかえり」と言うと、瑛子は笑って「ただいま」と言った。それはいつもと真逆の新鮮なことで、瑛子の笑顔につられて博樹も小さく笑う。でもそれで何もかもがうまくまとまったわけではない。リビングに入ってくるなり瑛子はおみやげ、と山形の文字が入った袋をいくつか差し出した。そのとき僕はあらゆる点がすべてつながり、確信に変わり、勝手ながらも心を痛めた。
テーブルの上に並べられた、さくらんぼやだだ茶豆を使った和菓子、三元豚の味噌漬け、そして山形牛はすき焼き用だから冷蔵庫にしまわないと。そう言って冷蔵庫に片付けている姿を見ていたら口が勝手に瑛子に話しかけていた。
「和樹と一緒だった?」
博樹の質問に瑛子は顔を向けてほんの数秒間、博樹を見た。そして少しだけ笑って、首を縦に振った。パタンと、冷蔵庫を閉じると瑛子は言った。
「夜中まで飲んで、抱きしめられたわ。自分と結婚すればよかったのにって言って」
僕を見る彼女の顔はどういうリアクションをするのかという挑発的なものなどではなく、ただ世間話でもするように、淡々としていた。何も言えないでいる博樹を前に、瑛子は平然と言う。
「でも、それ以上のことは何もなかったわ。私は彼の腕を解いて、隣の自分の部屋で眠った。本当に、それだけ。一緒に山形へは行ったし、夜中まで二人でお酒も飲んだけど、それ以上のことはないのよ」
瑛子の瞳。どこまでも澄んでいる透明なまなざし。疑うつもりはない。疑うはずがない。
「それと、桜井由香さんには、会わなかった」
サクライユカ、という響きはまるで時間を止めるキーワードのようだ。その名前を聞いて微動だにしない博樹に瑛子は続けて言った。
「結局、会わなかったの。会ってみようかと思ったけど」
数秒間、それは時間にして五秒くらいだっただろうか。とても長い数秒間。
「会ってどうするんだろうって思って。比べても仕方ないのよ。私は桜井さんみたいに誰かの命に関わるような仕事はできない。一人娘として実家を守ることも、学んできた音楽でたくさんの人の心を湧かすこともできない。
でも、それでも。私があなたのそばにいる意味ってきっとあるでしょう。たとえあなたが1人で生きていけたとしても」
そう言って、瑛子は夕食の準備中だったキッチンを見る。ダイニングテーブルには食器とグラスが並べてあり、流し台にはちぎったレタスが水にさらされている。まな板の上にはトマトと包丁も出ていた。僕は瑛子がいないと何もできない男ではない。最低限の家事はできるのだ。でも、それでも、と唇をかんだ。
「あるって、言葉にして。」
やがて声を絞り出すようにして瑛子が言った。声は途切れ途切れでその目からは涙が零れていた。何と声をかけようかと、何も言えないでいる博樹の胸に瑛子が飛び込むように抱きつくと、しばらく声を詰まらして泣いていた。僕の胸を叩く、つむじが見える。もう一度、小さな握りこぶしが僕の鎖骨の下を打ち、僕は自然とそっと瑛子を抱きしめていた。
「私たち、どうして私たち、夫婦なのに。結婚したのに。他の人が知っていることを、なんで奥さんの私が知らないの。帰る場所が同じなのに、指輪をしているのに。名字も一緒なのに。私が一番知っていたいのに。そう思うと。なんで。ねえ。」
時おり僕の顔を見たかと思うと再び腕の中に顔をうずめて、泣きながら瑛子が言う。嗚咽しながらその言葉は小さく消えていき、中途半端ではあったが言いたいことはわかるつもりだった。胸が痛かった。傷つけるためじゃない。自分を守るために抱かなかったわけでも、他の誰のために抱かなかったわけでもない。好きになったふりをして一緒にいたわけじゃない。きちんと瑛子に惹かれて結婚したのに。なんて愚かな自分。わかっていてくれるだろう、そのうちわかり合えるだろうなんて、ひどく傲慢だ。不安だったのは僕だけではなく、瑛子も同じだったんだ。
瑛子は腕の中から顔を出して、どこまでもまっすぐに、澄んだ瞳で僕を見て言った。決してそらすことのできない、疑わない輝き。
「できたら言葉や態度にして欲しい、あなたの言うこと、してくれることだけが私の真実だから。」
その言葉に頷かずにいられない。僕は誓うように言う。そうだねと。誰の言葉でもない。たった一つの真実。それは自分にとっても同じだと思ったから。
それから二人でに夕食の準備をした。なんて呑気なことだろうと思いながら、そんなことをするのは結婚してこの家で一緒に暮らすようになって初めてのことだった。
テーブルには買い置きしてあった生ハム、チーズ3種類。そして僕が昨日食べ残したバケット、瓶詰のオリーブ。瑛子はサバ缶とトマト缶、にんにくと玉ねぎを刻んで煮込む。手軽にこういうものを作れてしまう彼女を料理上手だと、おいしいものに貪欲だと再確認する。そしてありあわせでもなんとか料理になるものだと思う。大雪や台風か何かでこの家に閉じ込められても、瑛子となら楽しく過ごせるかもしれない。
このお皿でいい?とサバのトマト煮を盛り付ける白いオーバルを差し出すと瑛子は首を縦に振った。せっかくだから生ハムに合うルッコラを買ってこようかと言う僕に、瑛子は今日はレタスもトマトもあるから、野菜はそれでいいと言う。
「今日はもうここから出たくない」
二人でいたいの、と。照れもしないで言う瑛子に、なんだかこちらが恥ずかしくなる。鍋の様子を見る真剣な横顔の彼女を見て思う。ああ、そうだ。この子はとても情熱的でまっすぐな、素直な子だったんだ。毎日、言いたいことはいくらでもあるだろう。今日の出来事、仕事のこと、食事のこと、そして僕への不満も。僕はそれを全部、この耳で聞きたい。
「そうだ、デザートは宮崎産のマンゴーがあるよ。義母さんが今日持ってきてくれたんだ。」
御礼を言っておいて、と口にしてみて、その出来事が遠い日のことのように感じるくらい、今日は色々なことがあった。振り返ってみるとどっと疲れてしまうが、今はとても満たされていた。
料理を並べて、長く冷やしてあったシャンパンを開けた。それはだいぶ前に池袋西武の地下で二人で買ったものだった。あのときはまだ寒い季節でコートを着ていた。待ちわびた春のために、これからはロゼがいいねと、選びきれずに結局普通のロゼワインとロゼのシャンパンと一本ずつ買ったのだ。すぐに冷やしてその夜にロゼワインを飲んだものの、シャンパンはもっとちゃんと冷やしてまた次回の楽しみにしようと言って、数か月もの間冷蔵庫で冷やされ続けていたのだった。
桜色の液体が注がれた細いシャンパングラスの底から小さな気泡が昇ってゆく。その様子を二人で見ながら沈黙を破って博樹が言った。
「由香とは、大学生の頃から研修医二年目まで付き合ってた。同級生だから会うこともあるし連絡を取ることもあるけど、今はもう昔の恋人というだけで、それだけだよ。瑛子を抱かなかった理由に彼女は関係ない。」
瑛子がどうして?と聞きたそうな顔をしたと同時に博樹は少しだけ恥ずかしそうに笑って視線をシャンパンから瑛子に向けて言った。
「結婚したから、じゃあ、というものではないと思っていたんだ。君の気持ちがはっきりとわかっていなかったというのもあるし、僕もわかろうというのが不足していたのは大きな反省だけど、お互いが本当にお互いを必要としたときじゃないと意味のないことだと思っていたから。でも悩ませてしまってごめんね。僕が望むのは瑛子しかいないんだって、覚えていて欲しい」
それは誰のどの言葉よりも瑛子にとって重要で大切なものだった。
定型文のようなプロポーズの言葉や結婚式のときの愛を誓う言葉よりも、彼の家族から教えてもらった博樹の話や友人の励ましよりも確かな意味を持っていた。
瑛子は微笑んで首を縦に振った。冷えすぎたワインがゆっくりと常温に馴染んでゆくように、二人の時間が温まってゆく気がする。
「もっと時間をかけるべきだったのかな。結婚する前にたくさんのことを話し合うべきだったのかもしれない。」
目の前のグラスの中にゆっくりと流れる時間のように、静かに博樹が言うと瑛子は首を横に振って、そして笑った。
「結婚したから、ここまで理解できたのよ。」
美しい微笑みだった。彼女の頬はグラスのワインの色と同じように淡く色付いていた。
その笑顔の温かさは僕を心から安堵させる。いつも見ていたいと思う。この笑顔のために僕は努力しよう。
薬指の指輪なんて無機質なものではなく、今この瞬間のこの笑顔、僕だけが知るものに誓う。瑛子を見ていたい。
「今の気持ちの曲は?」
僕が言うと瑛子は口角をぐっと上げて微笑み、右手に持っていたシャンパングラスをテーブルに置いた。
「それはもう、絶対この曲ね」
弾いてもいい?と聞きながら花が開くように顔を明るくして、でグランドピアノのカバーをあける。僕は笑ってもちろんと答える。瑛子はピアノの椅子に腰かけ、瞬きもせずに鍵盤を見つめ、すうっと大きく一度息を吸って、決して大きくはない掌を鍵盤の上にそっとのせる。細い指が奏でる軽やかな出だしは華やかで明るい。忘れもしない、結婚式で瑛子が弾いてくれた曲。シューマン作曲、リスト編曲の『献呈』だ。その音はきらきら輝いている。瑛子が説明してくれたこの曲のエピソードと詩の意味を思い出す。結婚の喜びを表してロベルト・シューマンが妻クララに捧げた曲なのだ。
─君は僕の魂、僕の心、僕の喜び、僕の苦しみ、僕の生きる世界
フリードリヒ・リュッケルトの詩がシューマンの美しいメロディにあわせて浮かんでくる。
喜びであり苦しみでもある。もっともなことだと思わず頷いてしまう。想えば想うほどにこの心は揺さぶられる。
美しい音色に浸っていると、ふと、僕はいつだったか彼女が弾いてくれたブラームスの、作品118-2を思い出した。偶然にもこの曲もまたクララ・シューマンに捧げられた。対照的でありながら現代まで愛され続けた名曲の二つをクララはどのような気持ちで聴いていたことだろう。
瑛子は想いつづけるだけの人生はできないと言った。それは僕だって同じだ。美しくも切なすぎるEspressivo<エスプレッシーヴォ>。表情豊かに、感情を込めて。
献呈もまたすばらしく思い入れのある曲だが、あの間奏曲、作品118-2もまた忘れることはできない。僕は瑛子を想うときこの心にブラームスが流れる。誰かを想うことは貴重で素晴らしいことだが基本的に切ないし、ときに苦しい。
これほど近くにて、世間的に二人の関係の名前をもらっていてもパーフェクトに満たされる瞬間なんて、そう多くはないかもしれない。喜びも苦しみも半分ずつくらいなのかもしれない。それでも僕は人生でたった一人の存在を想えば想像できない何かを求め続けられる。
願はくば鍵盤を見つめる彼女も、きっと。
祈るような気持ちでそんなことを思っていると『献呈』の最後に組み込まれたシューベルトのアヴェマリアの旋律が清らかに響いていた。それは誓いを立てるなんて固く立派なことではなく、ただただ美しい祈りだった。
瑛子はまだ帰ってこない。それでもプレートとグラスを二つずつ並べようとしていたときだった。
ガチャン、と大きな音がして手にお皿を持ったまま開けっ放しになっていたリビングの扉の向こうを見る。もしかして、いや、間違いない。ほとんど確信に満ちた希望に溢れた気持ちで玄関のドアが開くのを見ていた。瑛子だった。一日ちょっと見なかったその顔が懐かしく思えるほど、長い長い時間会っていなかった。
まるで映画のように周囲は暗くて、瑛子だけがまぶしく光って見えた。
僕が「おかえり」と言うと、瑛子は笑って「ただいま」と言った。それはいつもと真逆の新鮮なことで、瑛子の笑顔につられて博樹も小さく笑う。でもそれで何もかもがうまくまとまったわけではない。リビングに入ってくるなり瑛子はおみやげ、と山形の文字が入った袋をいくつか差し出した。そのとき僕はあらゆる点がすべてつながり、確信に変わり、勝手ながらも心を痛めた。
テーブルの上に並べられた、さくらんぼやだだ茶豆を使った和菓子、三元豚の味噌漬け、そして山形牛はすき焼き用だから冷蔵庫にしまわないと。そう言って冷蔵庫に片付けている姿を見ていたら口が勝手に瑛子に話しかけていた。
「和樹と一緒だった?」
博樹の質問に瑛子は顔を向けてほんの数秒間、博樹を見た。そして少しだけ笑って、首を縦に振った。パタンと、冷蔵庫を閉じると瑛子は言った。
「夜中まで飲んで、抱きしめられたわ。自分と結婚すればよかったのにって言って」
僕を見る彼女の顔はどういうリアクションをするのかという挑発的なものなどではなく、ただ世間話でもするように、淡々としていた。何も言えないでいる博樹を前に、瑛子は平然と言う。
「でも、それ以上のことは何もなかったわ。私は彼の腕を解いて、隣の自分の部屋で眠った。本当に、それだけ。一緒に山形へは行ったし、夜中まで二人でお酒も飲んだけど、それ以上のことはないのよ」
瑛子の瞳。どこまでも澄んでいる透明なまなざし。疑うつもりはない。疑うはずがない。
「それと、桜井由香さんには、会わなかった」
サクライユカ、という響きはまるで時間を止めるキーワードのようだ。その名前を聞いて微動だにしない博樹に瑛子は続けて言った。
「結局、会わなかったの。会ってみようかと思ったけど」
数秒間、それは時間にして五秒くらいだっただろうか。とても長い数秒間。
「会ってどうするんだろうって思って。比べても仕方ないのよ。私は桜井さんみたいに誰かの命に関わるような仕事はできない。一人娘として実家を守ることも、学んできた音楽でたくさんの人の心を湧かすこともできない。
でも、それでも。私があなたのそばにいる意味ってきっとあるでしょう。たとえあなたが1人で生きていけたとしても」
そう言って、瑛子は夕食の準備中だったキッチンを見る。ダイニングテーブルには食器とグラスが並べてあり、流し台にはちぎったレタスが水にさらされている。まな板の上にはトマトと包丁も出ていた。僕は瑛子がいないと何もできない男ではない。最低限の家事はできるのだ。でも、それでも、と唇をかんだ。
「あるって、言葉にして。」
やがて声を絞り出すようにして瑛子が言った。声は途切れ途切れでその目からは涙が零れていた。何と声をかけようかと、何も言えないでいる博樹の胸に瑛子が飛び込むように抱きつくと、しばらく声を詰まらして泣いていた。僕の胸を叩く、つむじが見える。もう一度、小さな握りこぶしが僕の鎖骨の下を打ち、僕は自然とそっと瑛子を抱きしめていた。
「私たち、どうして私たち、夫婦なのに。結婚したのに。他の人が知っていることを、なんで奥さんの私が知らないの。帰る場所が同じなのに、指輪をしているのに。名字も一緒なのに。私が一番知っていたいのに。そう思うと。なんで。ねえ。」
時おり僕の顔を見たかと思うと再び腕の中に顔をうずめて、泣きながら瑛子が言う。嗚咽しながらその言葉は小さく消えていき、中途半端ではあったが言いたいことはわかるつもりだった。胸が痛かった。傷つけるためじゃない。自分を守るために抱かなかったわけでも、他の誰のために抱かなかったわけでもない。好きになったふりをして一緒にいたわけじゃない。きちんと瑛子に惹かれて結婚したのに。なんて愚かな自分。わかっていてくれるだろう、そのうちわかり合えるだろうなんて、ひどく傲慢だ。不安だったのは僕だけではなく、瑛子も同じだったんだ。
瑛子は腕の中から顔を出して、どこまでもまっすぐに、澄んだ瞳で僕を見て言った。決してそらすことのできない、疑わない輝き。
「できたら言葉や態度にして欲しい、あなたの言うこと、してくれることだけが私の真実だから。」
その言葉に頷かずにいられない。僕は誓うように言う。そうだねと。誰の言葉でもない。たった一つの真実。それは自分にとっても同じだと思ったから。
それから二人でに夕食の準備をした。なんて呑気なことだろうと思いながら、そんなことをするのは結婚してこの家で一緒に暮らすようになって初めてのことだった。
テーブルには買い置きしてあった生ハム、チーズ3種類。そして僕が昨日食べ残したバケット、瓶詰のオリーブ。瑛子はサバ缶とトマト缶、にんにくと玉ねぎを刻んで煮込む。手軽にこういうものを作れてしまう彼女を料理上手だと、おいしいものに貪欲だと再確認する。そしてありあわせでもなんとか料理になるものだと思う。大雪や台風か何かでこの家に閉じ込められても、瑛子となら楽しく過ごせるかもしれない。
このお皿でいい?とサバのトマト煮を盛り付ける白いオーバルを差し出すと瑛子は首を縦に振った。せっかくだから生ハムに合うルッコラを買ってこようかと言う僕に、瑛子は今日はレタスもトマトもあるから、野菜はそれでいいと言う。
「今日はもうここから出たくない」
二人でいたいの、と。照れもしないで言う瑛子に、なんだかこちらが恥ずかしくなる。鍋の様子を見る真剣な横顔の彼女を見て思う。ああ、そうだ。この子はとても情熱的でまっすぐな、素直な子だったんだ。毎日、言いたいことはいくらでもあるだろう。今日の出来事、仕事のこと、食事のこと、そして僕への不満も。僕はそれを全部、この耳で聞きたい。
「そうだ、デザートは宮崎産のマンゴーがあるよ。義母さんが今日持ってきてくれたんだ。」
御礼を言っておいて、と口にしてみて、その出来事が遠い日のことのように感じるくらい、今日は色々なことがあった。振り返ってみるとどっと疲れてしまうが、今はとても満たされていた。
料理を並べて、長く冷やしてあったシャンパンを開けた。それはだいぶ前に池袋西武の地下で二人で買ったものだった。あのときはまだ寒い季節でコートを着ていた。待ちわびた春のために、これからはロゼがいいねと、選びきれずに結局普通のロゼワインとロゼのシャンパンと一本ずつ買ったのだ。すぐに冷やしてその夜にロゼワインを飲んだものの、シャンパンはもっとちゃんと冷やしてまた次回の楽しみにしようと言って、数か月もの間冷蔵庫で冷やされ続けていたのだった。
桜色の液体が注がれた細いシャンパングラスの底から小さな気泡が昇ってゆく。その様子を二人で見ながら沈黙を破って博樹が言った。
「由香とは、大学生の頃から研修医二年目まで付き合ってた。同級生だから会うこともあるし連絡を取ることもあるけど、今はもう昔の恋人というだけで、それだけだよ。瑛子を抱かなかった理由に彼女は関係ない。」
瑛子がどうして?と聞きたそうな顔をしたと同時に博樹は少しだけ恥ずかしそうに笑って視線をシャンパンから瑛子に向けて言った。
「結婚したから、じゃあ、というものではないと思っていたんだ。君の気持ちがはっきりとわかっていなかったというのもあるし、僕もわかろうというのが不足していたのは大きな反省だけど、お互いが本当にお互いを必要としたときじゃないと意味のないことだと思っていたから。でも悩ませてしまってごめんね。僕が望むのは瑛子しかいないんだって、覚えていて欲しい」
それは誰のどの言葉よりも瑛子にとって重要で大切なものだった。
定型文のようなプロポーズの言葉や結婚式のときの愛を誓う言葉よりも、彼の家族から教えてもらった博樹の話や友人の励ましよりも確かな意味を持っていた。
瑛子は微笑んで首を縦に振った。冷えすぎたワインがゆっくりと常温に馴染んでゆくように、二人の時間が温まってゆく気がする。
「もっと時間をかけるべきだったのかな。結婚する前にたくさんのことを話し合うべきだったのかもしれない。」
目の前のグラスの中にゆっくりと流れる時間のように、静かに博樹が言うと瑛子は首を横に振って、そして笑った。
「結婚したから、ここまで理解できたのよ。」
美しい微笑みだった。彼女の頬はグラスのワインの色と同じように淡く色付いていた。
その笑顔の温かさは僕を心から安堵させる。いつも見ていたいと思う。この笑顔のために僕は努力しよう。
薬指の指輪なんて無機質なものではなく、今この瞬間のこの笑顔、僕だけが知るものに誓う。瑛子を見ていたい。
「今の気持ちの曲は?」
僕が言うと瑛子は口角をぐっと上げて微笑み、右手に持っていたシャンパングラスをテーブルに置いた。
「それはもう、絶対この曲ね」
弾いてもいい?と聞きながら花が開くように顔を明るくして、でグランドピアノのカバーをあける。僕は笑ってもちろんと答える。瑛子はピアノの椅子に腰かけ、瞬きもせずに鍵盤を見つめ、すうっと大きく一度息を吸って、決して大きくはない掌を鍵盤の上にそっとのせる。細い指が奏でる軽やかな出だしは華やかで明るい。忘れもしない、結婚式で瑛子が弾いてくれた曲。シューマン作曲、リスト編曲の『献呈』だ。その音はきらきら輝いている。瑛子が説明してくれたこの曲のエピソードと詩の意味を思い出す。結婚の喜びを表してロベルト・シューマンが妻クララに捧げた曲なのだ。
─君は僕の魂、僕の心、僕の喜び、僕の苦しみ、僕の生きる世界
フリードリヒ・リュッケルトの詩がシューマンの美しいメロディにあわせて浮かんでくる。
喜びであり苦しみでもある。もっともなことだと思わず頷いてしまう。想えば想うほどにこの心は揺さぶられる。
美しい音色に浸っていると、ふと、僕はいつだったか彼女が弾いてくれたブラームスの、作品118-2を思い出した。偶然にもこの曲もまたクララ・シューマンに捧げられた。対照的でありながら現代まで愛され続けた名曲の二つをクララはどのような気持ちで聴いていたことだろう。
瑛子は想いつづけるだけの人生はできないと言った。それは僕だって同じだ。美しくも切なすぎるEspressivo<エスプレッシーヴォ>。表情豊かに、感情を込めて。
献呈もまたすばらしく思い入れのある曲だが、あの間奏曲、作品118-2もまた忘れることはできない。僕は瑛子を想うときこの心にブラームスが流れる。誰かを想うことは貴重で素晴らしいことだが基本的に切ないし、ときに苦しい。
これほど近くにて、世間的に二人の関係の名前をもらっていてもパーフェクトに満たされる瞬間なんて、そう多くはないかもしれない。喜びも苦しみも半分ずつくらいなのかもしれない。それでも僕は人生でたった一人の存在を想えば想像できない何かを求め続けられる。
願はくば鍵盤を見つめる彼女も、きっと。
祈るような気持ちでそんなことを思っていると『献呈』の最後に組み込まれたシューベルトのアヴェマリアの旋律が清らかに響いていた。それは誓いを立てるなんて固く立派なことではなく、ただただ美しい祈りだった。