エスプレッシーヴォ
瑛子は食後にデザートか、デザート代わりになる甘いお酒を欲しがる。
例えば果物とブランデーだとか、チョコレートとウイスキー、ガトーショコラと赤ワインという組み合わせでもいい。
甘いお酒単品なら甘口のワイン、特にヴィン・サント(イタリアの甘いデザートワイン)、それかカクテル、リキュールなどを特に好む。
僕たちは知り合ってわずか半年ほどで結婚したから、知らないこともまだ多く、彼女の口からはっきりそう言われたわけではないのだが、これまでの流れから、それはかなり100パーセントに近い確率で、確信できる。
瑛子は最後は甘い味で食事を終えたいのだ。
週末の仕事帰りに駅で見かけたシュークリームだとかケーキ、果物を買って帰るのも習慣になりつつあった。
「チーズケーキって日本酒とも合うのよね。でも今夜はシャンパン。ちょうどいいのが冷えているから。」
そう言ってシャンパングラスを食器棚から出しながら、瑛子はシューベルトの野ばらをドイツ語で歌っている。この歌を日本語で歌うときよりもご機嫌なのだ。
それを知ったのは結婚して、同じ家で暮らすようになってからだった。
音大のピアノ科を出た彼女は、ピアノに限らず音楽が好きだ。気ままに色々と歌うものの、博樹がすぐにわかるのはこのシューベルトの野ばらくらいのもので、その声は声楽家のようなのびやかでパワフルな歌声ではなく、まるでどこかの小学生が歌っているかのような、日常のなかで明るく響く呑気な歌声で心地よい。
まるで背景には薔薇が咲き乱れる小さな庭園が浮かぶようだ。
「でも音楽の先生にも演奏家にもなれなかった。本当に何もできないの。」と謙虚に、いや、それよりずっと自分を卑下したように瑛子は時折言った。
そんなことみじんも気にならず、僕は彼女の奏でる音楽、わずかに見える横顔を、ああきれいだなと思う。少年が野ばらを折ってしまう気持ちを複雑に想像する。
「今度バラを見にいくのはどうかしら」
満面の笑みで少し先の未来を楽しみにする瑛子に、そうだねと首を縦にふらない男はいないだろう。瑛子は美しいのだ。
瑛子の父親と博樹の父親は医大の先輩、後輩で、どちらも代々医者という家系だった。
医者の家系とは不思議なもので、永遠に医者を出し続けなければいけないような風潮がある。
その家系の母、また妻となる人間は大変なプレッシャーに苦しむことがあるだろうと思う。男側も結婚相手選びに慎重にならなければいけないことも事実だ。
もちろんそんな細かいことを気にせず好きになった人同士で結婚している医者も大勢いるし、博樹自身も結婚相手についてそれほど深く考えたことはなかった。
しかし一人娘の瑛子はやがて自分もいずれ医者と結婚しなければいけないと感じていたようで、瑛子の両親にとっても安心できる存在だった博樹との縁談はスムーズに進み、互いに断る理由もないまま結婚した。
唯一のネックは博樹が長男であること。理想は婿に入ってもらいたかったようだが、結果的に瑛子が嫁ぐ形で結婚した。
僕は瑛子に選ばれたことを光栄に思う。
「でもさ、結局は外見とか惹かれる部分がなかったら結婚しなかったんじゃないのかい?」
自販機のコーヒーを買って病院の裏庭で休憩をしていたら、同級生の中川に会った。大学時代からずっと一緒のこの男は陽気で親しみやすく、友達も多いし女の子にもてる。恋愛経験も豊富だ。世間のことをよく知っていると思うが、自分からすると少しおしゃべりな男だとも思う。この気さくな人柄は内科向きじゃなかろうかと博樹は思っていたが、「外科のほうが楽なんだよ、作業だからな」と意外にも外科医としてオペをバリバリこなしていた。
「そういうものかな」
「そうだよ。特に俺たち男は視覚で恋をするからね。なんだかんだいって桜井もきれいだったもんな。桜井と奥さんどっちが美人?」
そんなの比べられるものではないよと言うと中川はきれいごと言っちゃって、といやらしい笑顔でこちらを見ている。
桜井というのかなり前に別れた恋人だった女性だ。大学の同級生で中川もよく知っている。彼女は今、地元の山形で産婦人科医として勤務している。
「ま、女はもっと打算的だよ。学歴とか年収で選ぶからな」
「瑛子はそういう感じしないよ。本人がお嬢様だからね」
「それを言ったらお前だってお坊ちゃんじゃないか。ついでに言うとお嬢さんだからこそじゃないのかな。普通の男と付き合えないんだよ。医者の家系なんだろう?医者としか結婚できなかったんだよ、彼女。俺はお前も彼女も義務で結婚したんだと思った。でも博樹よかったじゃん。医者になったおかげで若くてかわいい奥さんもらえて」
「そんなこと」
わずかに身を乗り出すようにして言うと右手首にはめられた腕時計に視線をやった中川が黒縁のメガネの位置を直しながら言う。
「お、時間だ。続きはまた今度な。近々飲みに行こうぜ」
飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に勢いよく投げ入れる。ガシャンと缶同士は見事にいい音を立ててゴミ箱に入り、彼は足早に院内に戻って行った。
義務で結婚したんだと思った。
その何気ないはずの言葉は博樹の心に深く刺さった。残された僕は瑛子が医者の娘だから結婚したのではない、とはっきり言えないまま昼休みが終わってしまい、心の中が掃除をおろそかにされた濁った水槽のようだった。
家に帰ると瑛子はピアノを弾いていた。音は玄関の鍵を開ける前に少しだけ聞こえる。
ピアニストになるわけでもなく、ピアノの先生になるわけでもなく、ただ他に学びたいことがないという理由で音大のピアノ科を出た彼女の唯一の趣味だと言う。人前で弾くこともたいして好きじゃないし、誰かに教えられるほどうまくもないから趣味なのよと笑っていた。瑛子の母親も同じ音大を出ていて、やはりピアノが趣味だった。幼少時より愛用しているYAMAHAのこのグランドピアノを置けることが新居の唯一の条件だった。あとは一階でも最上階でもいいし、駅から十五分歩いてもいいと言っていた。結婚祝いに新しいピアノを一台プレゼントしようか、実家にもあれば、それはそれで弾く機会もあるだろうと言った博樹の両親の申し出を断ったのは瑛子だった。
それはなんとなく瑛子の性格がわかるようなエピソードだった。
ドアの鍵が開く音に反応して瑛子はすぐに演奏を止めた。でも決して扉をあけて僕を迎え入れたりはしない。僕が扉をあけるとピアノの椅子に座ったまま「おかえりなさい」と笑顔を向ける。それでも僕は切なくなる。悪かったね。ピアノを弾く手を止めさせてと。
「なんて曲?続きを弾いて」
「なんて曲だと思う?」
瑛子が笑って聞き返す。僕にわかるはずがない。音楽の成績こそ悪くなかったものの、それは単純にテストの点数であって、曲も作曲家も有名どころしか知らないのだから。
「ショパン」
博樹は少し考えたふりをしてピアノの詩人と言われる有名すぎる作曲家の名前を答えると瑛子が笑った。
「博樹はなんでもショパンなのね」
そういえばこないだも同じやりとりをしたかもしれない。おかしくなってつられるように小さく笑った。
「続きを弾いてよ。そしたら曲名が浮かぶかもしれない」
僕は春物のグレーのジャケットをハンガーにかけながら言った。瑛子はピアノのカバーをかけて片付ける。もう飽きちゃった、と言いながら。
「夕食の準備をするわ。今日ね、お母さんがたけのこを持ってきてくれたの。水煮にしたものと、煮付けにしたものと、それから炊き込みご飯もくれたわ。たけのこだらけ」
ふふふと笑って瑛子はキッチンの電気をつける。
「へえ、いいねえ。何か用があったのかな」
「ううん。たけのこを届けにきただけみたい。ついでにお父さんからって日本酒ももらっちゃった。冷やしてあるわ。新潟のおいしいお酒なんですって」
瑛子の明るい顔に母親との短い時間が充実していたことが伺える。一人娘が家を出て寂しくて、本当に会いたかったのは瑛子の母親のほうだろう。父親だって本当は会って抱きしめたいくらい瑛子を愛しているだろう。日本酒をくれたということは、おそらく以前贈ってくれた切子のペアグラスで飲んで欲しいということに違いない。瑛子の両親の顔を思い浮かべる度に、僕は絶対に瑛子を傷つけないように、泣かせないようにしなくてはと思う。
「たけのこを食べようか。日本酒もいただきたいね」
テーブルには若竹煮と炊き込みご飯が並べられていて、唯一瑛子が今夜作ったものだという茶碗蒸しの中にも見えないけどたけのこが入っているらしい。メインの鰆が肩身狭そうにしている。瑛子は冷やしておいた生酒を出して、嬉しそうに青と赤のそろいの切子を並べて注いだ。ありきたりだけどペアグラスは夫婦という感じがして、ああ結婚したんだなと実感する。そして昼間の中川との会話を思い出す。
義務、という言葉は硬すぎて苦しくなりそうだ。
互いにメリットのある結婚だったのだろうか?瑛子は僕が医者でなければ結婚しなかったかもしれない。
まあ、それは考ないでおこうか。もしもの話はいくらでもできるし終わりもない。
それは自分だけではなく彼女にとっても同じことのはず。美しい赤い切子のグラスを口元に運んだ瑛子の笑顔がまぶしかった。
「このお酒おいしい。やっぱり新潟のお酒っておいしいのね。お米の旨みっていうのかしら。どの料理にも合う感じ。博樹も早く飲んで」
瑛子の嬉しそうな声に、僕は言われるがままにグラスを口に運ぶ。本当だ、おいしい。料理に合うね。そう言うと瑛子は今日一番の笑顔を見せた。目を細めて、鼻の頭に皺を作って、自分をきれいに見せようなんて少しも感じられない、天然の笑顔だ。
「明日の朝はたけのことあさりのお味噌汁よ。夕食はたけのことエビでアヒージョにしてみようと思うの。金曜の夜でしょう。ワインを飲みたくて。飲むでしょう?にんにくも大丈夫でしょう?」
僕は笑った。外来で人と話をすることの多い僕を気遣ってにんにくを多く使う料理は週末の夜に食べるのだ。
まだ始まったばかりの結婚生活は未知数だけど、例えばこんなふうにお互いを気遣って、日常のことを話す。美味しいものを一緒に分かち合う。結婚の醍醐味ってこれじゃないかなと呑気な気持ちで思った。
そのとき、家系もお金も美人も関係なく、この繰り返される日常で、二人きりでおいしい料理とお酒を味わえればそれでいいんだ。わかりやすくていいじゃないか。少なくとも僕はそう思った。
抱かないことが誠実だと信じていたのは、嘘じゃない。
洗い終えた食器を片づけながら歌う瑛子のドイツ語のシューベルトが室内に朗らかに響いていた。