エスプレッシーヴォ
博樹の第一印象はごく普通の好青年で、清潔感があって話し方も丁寧で、誠実そうだった。
年上ということもあったけど、とても落ち着いていて優しそうだった。
お見合いという場で素を見せてくれているとは思わなかったが、それも含めこれだけの対応ができるということは素晴らしいことで何も悪いところはなかった。
こういう形で男性を紹介されるのは初めてではなかった。博樹と会う前に片手では足りない数の男性と会った。博樹がどのくらいの女性を紹介されてから自分と会ったのかはわからない。彼にそんな質問をしたこともない。
だが一方で瑛子の両親は決して相手に再び会いたいと言わない瑛子を杞憂した。やがて紹介された博樹は長男で婿に入ってくれる人ではなかったが、瑛子は彼に対して嫌だと思うところは一つもなく、それは瑛子の両親も同じだった。
父も母も博樹を気に入っている。瑛子の気持ちも考慮して、一人娘を嫁に出すのにふさわしい相手と判断したのだ。
実家の病院についてはそのとき考えよう。いつなにがあるかは誰にもわからないのだから。
そういう父の柔軟なところを瑛子も尊敬していた。だから結婚して実家の横浜を離れたときは寂しかったが、明るく送り出してくれた両親のためにも幸せにならなくてはと思う。義務ではない気持ちで、確かに、きっと。
結婚して一カ月が経とうとしていた。
若い博樹は当直やら何やらで夜に一緒に食事をするのは月の半分ほどで、彼には彼の用事もあり丸一日一緒に過ごせる休日は今のところ二日だけ。あとは瑛子は実家に泊まったり、友達と食事に出かけたり、一人の時間がとにかく寂しくならない過ごし方を自分で選んでいた。先日は二泊も実家で過ごした。その際に母親と二人でお茶をしていたときに、ふと漏らした不満について、三十年ほど医者の妻をしていた母が言った。
「医者という仕事は忙しいものなのよ」
でも世の中の役に立てる職業だから、ね。そう言って、暗に我慢しなさいと言われた。この寂しさや虚しさを分かち合える人は誰だろう。平日も帰りは遅い夜が多かったし、一緒に夕食を食べても早々と眠りについている姿を見ることも多かった。
まだ彼に抱かれたことがない、という話は、本当に親友だと思っている里香にもしていない。
「いいわねえ、若い人妻。それも旦那様は背も高くてかっこいいドクターなんて。漫画みたい。」
里香が笑う。里香は細々とではあるが演奏活動をしたり、ピアノのレッスンをしたりしている。
「やめてよ。そんなにうまくいってるわけじゃないんだから」
「なによ、じゃあ、うまくいってないっていうの?」
そういうわけじゃ、と口を濁らせて瑛子は甘いミルクティを口元に運んだ。
うまくいっていないわけではない。穏やかな会話や笑いばかりで、衝突もない。他人と暮らすというお互い初めてのことに気を遣っているとも言えるのかもしれないが。
「里香はまだ結婚しないの?」
彼女には大学時代から付き合っている恋人がいる。近隣の大学の経済学部を出た彼は現在はごく普通のサラリーマンだという。
「そうね、結婚。しなくちゃとは思うし、もう5年近く付き合っているとこの人と結婚するしかないのかなって。
でもそれしかないのかなって思っちゃって。ただ、実はね。」
里香は少し恥らいながら、こっそりと内緒話をするように小声で言った。
「こないだチェリストの天野慧と会ったの」
「ええ?本当?」
瑛子は驚いてつい大きな声を出してしまう。
天野慧というのは同年代のチェロ奏者だが、小学生の頃から天才と言われてきてCDももう何枚も出している。
現在はウィーンに留学しているという話だったが、コンサートなどで日本にいることも多いようだ。
「今度伴奏してくださいって言ってくれたわ。」
「それはすごい。それって、音楽性を評価されたってこと?それとも・・・」
それとも、と言ってその後に続く内容をお互いに言葉なくとも理解していた。まるでティーンのように二人とも何かを期待していた。
「わからないわよね。真相は。でも、ちょっとドキドキしてる。連絡先くれたし。期待しちゃいそうになる。でも自分なんかがまさかって思うの。それは音楽性でも同じことだけど、レベルってあるじゃない。」
「レベル?」
聞き返す瑛子に里香は平然と言った。
「人間の価値というほどのものではなくて。ほら、天野さんみたいな優秀な人と私じゃつりあいがとれないっていうことなのよ」
「そんなこと」
里香は首を横に振る。
「家柄だって全然違うわ。うちなんて、両親はよくいる地方公務員だし。天野さんの家って、確か親戚に芥川賞作家とか、東大の名誉教授とかいるって話でしょう。」
言いながら、里香はうつむく。
どんな命も仕事も平等に尊いはずなのに、それなのに里香の気持ちもわかる気がした自分に嫌気が差した。
里香は学費半分免除の特待生で(学費全額免除は学年で1人、学費半分免除は学年で5人免除なのだ)、コンクールにも積極的にチャレンジしていたし、親元の岩手を離れて一人で頑張っている姿は立派で、彼女は強く優しく瑛子は尊敬していた。
だから天野慧と並んだ彼女をレベルが違うなんてことは思いたくない。里香だってこんなに魅力的なのに。
しかし、彼女の言葉を否定しつつも、その言葉は瑛子自身の胸にも刺さった。
考えたこともなかった。自分が相手にふさわしいかどうか、レベルが違うとかそういうこと。
ただ一緒にいたくて、隣にいたくて、それだけだった。それでいいんじゃないかと思ってきた。
愛しい人の隣を並んで歩けるだけの資質、というものを考えると、とたんに不安になる。
「ところで、子どもは?もう作ってるの?」
急に話を変えてきた里香の言葉に驚く。ミルクティの淡いベージュがなんだか慰めてくれるようにも、幼稚な自分を見下してにしているようにも見える。
「そんなこと、まだ考えていない。結婚したばかりだし」
それもそうね、まだ一カ月くらいだものねと里香はコーヒーを口に運んだ。
言われて考えてみる。博樹の手の温かさ。おやすみと、まるで動物か子どもでも撫でるみたいに頭に触れるときの優しい感触。先に目が覚めたときにだけ見ることのできる無防備すぎる寝顔、伏せたまつ毛の長さ、こっそり触れる頬の柔らかさ。でもそれ以上に近付いたことのない自分たちの距離。いつでも触れることができるのに、結婚式のときの軽いキスしか知らないなんて。
博樹は私を全て欲しいと思ってくれないのだろうか。
決して抱かれないことが不満なのではないが気が付くと1人で先に寝てしまっている博樹を見ると、その寝姿には疲労とか仕事とかそういったことしか語ってくれず、何も答えてくれないと私と結婚したことをどう思っているの?私を好き?なんていちいち言葉で確認したくなる。
でもあんな軽い、言ってしまえば形式的な意味しかない結婚式のキスなんて無意味だ。
「弟さんも医者なんでしょう?朋美が紹介して欲しいって言ってたわ。私だって音大出のお嬢様なのよって」
朋美というのもまた同じ大学の同級生なのだ。里香が少しも本気さが感じられない様子で笑って言う。
音大卒のお嬢さんということが医者である博樹に選ばれた理由のように思われているのかと思うといくらか悔しかった。
「結婚式のとき見たでしょう。朋美のタイプじゃないと思う」
親族とごく数人の親しい友人だけを集めた葉山でも結婚式。海を背景に背広を着て堅苦しいと言うような義弟の姿が浮かぶ。博樹と同じくらいの背で、よく似た輪郭や目と鼻の形をしているのに、どこかきつそうな顔つきをしていた。博樹には六学年下で、瑛子の同い年にあたる和樹という弟がいる。和樹もまた医者で、二十六歳の彼は現在研修医をしている。
「また話聞かせてよ。新婚さんの話はワクワクするわ。何かあったらいつでも言って。」
「ありがとう、そっちこそ。若手天才チェリストの新たな恋、週刊誌に売ったりしないわ」
ネタにならないわよ、なんて里香の言葉に笑いあって会話を終えて、手を振って別れる。
あわせて面倒なこと、考えたくないこと、自分を悩ませるものとさよならをして博樹とのマンションに帰った。
家に帰って三十分程した頃だろうか。砂抜きしていたあさりを洗っていると予想しない呼び鈴が鳴り、手を止めて瑛子はインターフォンの受話器を上げる。モニターに映ったのは和樹だった。横顔でもわかるくらい博樹と骨格が似ている。ただし、博樹はこんなカジュアルな麻のシャツもカーディガンも羽織らない。
「夕食まであと一時間近くあるけど」
「いいよ、別に」
瑛子が言うと、荷物を面倒くさそうに床に置いて、和樹は自分の家のように上着をハンガーにかける。その手つきがあまりにも兄に似すぎていてこっそりと瑛子は笑った。御茶ノ水の大学病院に勤務する彼は、吉祥寺の実家に帰るより瑛子たちの住む目白のマンションに泊まりに来ることがある。
「ここいいよね。池袋からも歩けるし」
彼は丸ノ内線で池袋まで出た後は、15分程の道のりを歩いてくるのだ。
「吉祥寺だって中央線で一本じゃない。乗っていれば着くんだから」
「この時間の中央線なんて絶対乗りたくないね。ひどいんだぜ、ラッシュ。それだったら俺はこの家のソファでいい」
そう言って和樹は博樹と選んだグレーのコットン素材のソファに横になってスマートフォンをいじる。
なんだかんだ言いつつダイニングテーブルにワイングラスやプレートを三人分並べながら瑛子が言った。和樹がいるということは、ワイン2本は確実に空くだろうなと思いながら、慌ててカヴァの冷え具合とワインセラーのワインの在庫を確認する。ビールも二本だけ冷やしてあるが、足りるだろうか。今日は金曜日だし、博樹もそれなりに飲むだろう。瑛子もまた、彼らに合わせてお酒が進んでしまう気がする。そんな瑛子の気持ちを見透かしたように一樹は紙袋を差し出した。
「ちゃんと自分で飲む分買ってきた。瑛子も飲んでいいよ」
池袋の西武の紙袋に入った色々な地域のビールは冷えているものもあった。こういう妙な気遣い。他人に気を遣わせないように自分が気を遣うところ。これは博樹にはないところかもしれない。博樹のほうがずっとやさしくて紳士的なのに、そのやさしさに時折苦しくなることがある。あまりにも上手に優しくされてしまうから。
ありがとうと言って、瑛子は缶ビールを冷蔵庫に入れた。
「病院の近くにマンション借りちゃえばいいのに」
「家借りるのも面倒じゃん。来年違うところに移動するかもしれないし。ちょうどよくこの家もあるし」
「和樹のためにこの家があるわけじゃないのよ」
ここは私と博樹の家なのよ、と目で訴えると和樹は分かっているよと言うように笑った。和樹が博樹と兄弟だと思う瞬間だ。全部を言葉にして伝えなくてもだいたいのことをわかってくれる。だからと言って瑛子の口数が減るということではない。ゼロや白紙から感じ取ってくれることとは違う。
やがて十九時半に帰宅した博樹が和樹に気付いて何かを言う前に、推し量って弟のほうが先に言った。
「飲む相手が捕まらなかったんだよ」
飲んで、何時間か寝たら出るから、おかまいなく。そう言って和樹はまたスマートフォンをいじり始めた。博樹は少しだけ眉間に皺をよせて、仕方ないね、と言うように笑っていた。男兄弟とはこのようなものなのだろうか。一人っ子の瑛子は二人のやりとりを横目に静かに夕食の用意をしていた。その夜のアヒージョは好評だったけど、この旨み、オイリーさ、食欲をかきたてるにんにくの香り。誰が作ってもおいしくできてしまうと思った。
それでも自分の料理の向こうによく似た笑顔が二つ並ぶ姿は悪くなかった。そのとき、瑛子は博樹を通して和樹も好きになりつつあると思った。もちろん恋なんて甘酸っぱい感情ではない。身内、という言葉がしっくりくる。夫を愛するように、夫の両親を大切に思うように、夫の弟もまた同じく。
しばらくの後、若い和樹はソファで静かに横になっていた。
それは窓際のアイビーとドラセナ、テレビの横の間接照明のようにこの家の一部のようにごく自然に家と調和していた。
お布団敷こうか、とまどろむ彼に瑛子が聞くと、寝ぼけながらも「だいじょうぶ」と静かに返事をする彼の気遣いに兄弟を感じながら、夏用の薄いブランケットをかけて博樹の眠るベッドに静かに、彼を起こさないようにそっともぐりこんだ。