エスプレッシーヴォ
弟との関係は可もなく不可もなくだった。
お互いに興味のあること、やりたいことに手を出して、気が付いたら同じ道を選んでいた。自分と同じ科の医師になるかどうかはまだわからない。
なんとなく実家を継ぐのは長男の自分で、次男はどこかで独立するような流れがあるが僕は一緒に親父の病院をやってもいいと思うし、いっそ自分は大学病院で研究しながら医者をするのもいいなと思っている。
瑛子の実家のことを考えれば、実家は弟にまかせて、自分は瑛子の実家の病院を継いでもいいだろう。
長男や次男の肩書はたいした意味をもたないと思っているつもりだが、そうでない周囲も多い。いつだったか長男は長男らしく、次男は次男らしく育つものだと母親に言われたことを思い出す。


和樹が新居のマンションにやってくるのは二週間に一度もないことだが、そのこと自体博樹は全く予想していないことだった。
兄弟で出かけたり食事に行ったりすることがある仲ではなかったからだ。
博樹が研修医として千葉に一年だけ一人暮らしをしていたときも遊びに来るようなことはなかった。
だから新居へ来ることなど予想もしなかった。和樹がベットとして使うグレーのソファを見ながら思う。

きっかけは瑛子、なのだろうか。

弟と同い年の五歳年下の妻。妻と呼ぶにはあまりに知らないことが多く時間も足りていない。どこか浮世離れしたお嬢様。美しいものとおいしいものを愛してお気に入りの音楽を口ずさんだりする女の子。

もし仮に自分があのマンションに一人で暮らしていたとして、果たして和樹は泊めて欲しいと立ち寄っただろうか。ありえない気がする。もちろん真実はわからないけど。博樹は自分と弟の血のつながりに、妙な勘が働きそうになる。

予定通りに仕事を終えて自宅に帰ると瑛子の笑顔があった。

ピアノの音がしないリビングの扉を開けて視界に入る。扉の左側にあるいつものグレーのソファには先客がいた。和樹が横になって足を延ばしてスマートフォンをいじっている。こんなふうに笑顔で「おかえり」を言われることは今までだってあった。和樹は機嫌がよくても悪くても笑顔が作れるのだ。その作り笑いの上手さは自分以上だと博樹は思っている。

「おかえりなさい」

瑛子はテーブルの上に三人分の食器を並べながら、扉を開けた博樹に笑顔を向けていた。博樹はただいまと言うと、視界にソファでだらしなく足を延ばしてくつろいでいる弟を見た。博樹の胸に妙な感情が湧く。自分が子どもだったらそこは自分の場所だと声を上げて訴えたかもしれない。
弟との関係は良好ではないが険悪でもない。普通かと言われれば、普通などわからないと答えたくなる。そういう感じだ。でも瑛子がいるとき、弟は知らない誰か、他人に見える。でも瑛子と話しながら笑う姿を見ていると、自分との血のつながりを感じる。変な感じがした。
弟の和樹は自分よりも勘のいい人物で、何かを言う前に発言することが多々あった。目が合っただけで気持ちが伝わってしまうみたいで気持ち悪かった。

正直、和樹が自分と同じ医師の道を選ぶと思わなかった。父親と同じ医大に進学した自分の後を追うとは思わなかったので、正直、かなり驚いた。違う大学の医学部や、または全く違う理系の学部に入る可能性もありえると考えていたし、実際に慶応と早稲田の理工はパスしていたらしい。

家族のこととはいえ、兄弟仲など瑛子には関係ないことなので、僕はつとめてごく普通に弟に接する。
最も、普通というものなどありはしないとわかっているが、それは会話をする、気を遣うといった類のことで、知り合いにそうするレベルのことだった。一人娘の瑛子にとって男兄弟とはこんなものだと映ればいいと思う。
僕は別に瑛子が親だろうと弟だろうと誰と関わりを持ってもかまわない。隠し事や後ろめたいことがあるわけじゃない。
そう思いながら、ふと思い浮かべる桜井という女性の顔。この間、中川と会ったせいだ。

「義務で結婚したんだと思っていた」

昔の話だよ。博樹は自分に向かって心の中で言う。後ろめたいことはない。もう過ぎた話だ。それなのに、関係がないと言えない自分がいた。
目の前にいる愛らしい女性。胸元までたっぷりと伸ばされたロングヘアはやわらかく、そして艶やかに光る。笑ったときに細くなる目。伏せたまつ毛の長さ。
まだまだ瑛子を知らないことは多いけれど、彼女を大切に思っていることは確かだった。
適齢期。親のすすめ。親の知り合いのお嬢さん。同じ苗字になったばかりの女性の手料理を食べながら、頭には色々なキーワードが浮かんできて、義務という言葉が再びよぎった。

「ワイン、もう1本空ける?」

まぶしい瑛子の笑顔。
いいね、そうだね。明日は休みだし。そう言ってすすめられるままにワインを飲み、気が付いたらベッドの中だった。まだ暗い夜中、ゆっくりと顔を横に向けると瑛子は控え目にベッドの端で眠っていた。触れようと思っても触れることのできない、遠いところにいた。
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