エスプレッシーヴォ
その日は梅雨に向かって身体が疲れていくような五月の下旬だった。
十九時半。夕食の準備をしようと先日漬けておいた人参とセロリのピクルスを瑛子がお皿に盛りつけていたところでベルが鳴る。
宅急便は届く予定がないし、この時間に何かの営業と言うこともないだろう。
慌てて瓶を置いてリビング入口にあるモニターを確認すると見たことのある男性がいた。博樹によく似た目と鼻すじ。和樹だった。
「今日は博樹は遅くなるみたいなのよ。」
和樹は何も気にしていない様子で荷物を床に投げるように置いてジャケットを脱ぐ。
「いいよ。兄貴に会いに来てるわけじゃないし」
そう言いながら、博樹は紙袋を差し出した。もらったんだ。じゃあ何をしに?なんて聞くタイミングも与えず、そう渡された袋の中の長方形の箱を開けるとプリンが五個入っていた。透明のカップには緑色とこげ茶色の濃いものと薄いもの、淡いピンク色が1個ずつ入っていた。抹茶とチョコとメープルと苺だ。
「大変、これはケンカになるわ」
そう言って瑛子が嬉しそうに笑うと和樹は、どうぞ一人占めしてと、どうでもよさそうにスマートフォンをいじっていた。でもその顔は笑っていた。その様子を見ながら、もらったというのも本当かもしれないが、和樹が買ってきてくれたのかもしれないなと思った。どちらにしてもなんだか嬉しかった。一人っ子で、兄弟が欲しいと思ったこともあった。結婚してできた義理の弟は、決して求めていた‘弟’とは違ったが、こうやって新しくいい形で人間関係ができてゆくことは嬉しくありがたいことだと思う。プリンを冷蔵庫に入れると、瑛子は言った。
「和樹、ホットプレート出してお好み焼にしよう。ソース味って思いのほか赤ワインと合うの」
特に食べたいものもなく、博樹がいなければピクルスといわしの缶詰、あとはチーズくらいの簡単な食事で済ませようと思っていた瑛子だったが、気が変わったのだ。博樹といるときも食欲がわくが、里香といるときに湧いてくる食欲、たとえばケーキを食べようとか、カフェに行こうとかいうのとは違う。和樹も食欲を掻き立ててくれる。
早速ワイングラスを出し始める瑛子のその様子に和樹はまずはビールがいいなあと笑って立ち上がり、ダイニングテーブルの上を片付け始めた。
瑛子がキャベツを刻んで「これ混ぜてね」と具や粉が入ったボウルを渡すと和樹は文句も言わずに言われた通りにしていたのがおかしかった。
具には豚肉と冷凍のシーフードミックス、明太子やチーズを並べ、空いているスペースで瑛子がピーマンやなす、玉ねぎ、しいたけを焼いて、2人しかいないのに賑やかなパーティーみたいな気分になる。子供の頃を思い出す。ホットプレートを出して友達と一緒にクレープやホットケーキを焼いて誕生日会をした。おいしく料理されたものを味わうのも素敵なことだが、こうやって誰かと一緒に料理しながら食べるというのは楽しくていっそうおいしい。自然と仲良くなれる気がする。換気扇を回しても室内に充満するにおいに負けずに二人で焼いては食べ、ワインを注ぎ合った。お好み焼きソースとスペインのテンプラニーリョの赤ワインとの組み合わせを和樹も気に入ってくれたことが瑛子にとって大変満足なことだった。
デザートにウイスキーとプリンを食べ、和樹はミックスナッツをつなみながら瑛子に付き合っていた。スピーカーからはブラームスのピアノソナタが流れ、和樹はもうちょっと夜っぽいのがいいなあとリクエストしていた。ショパンのノクターンとかさ、シューベルトのセレナードとかさ、色々あるだろう。
そう言われながらも、瑛子はブラームスの気分なのと、義弟のお土産のメープル味のプリンを口に運んだ。渋いねえと和樹が笑いながら瑛子と同じようにウイスキーを味わっていた。
どうしてだろう。ブラームスが渋いと言われるのは。そうは言っても瑛子自身、子供の頃はブラームスが苦手だった。楽譜が読みにくいとか弾きにくいとか、単にそういうことではなく難解で、とてもエネルギーを消耗する作曲家だったのだ。
今でも完璧に理解して、上手くこなせるとは思わない。でもその旋律は熱く、作曲者の熱のこもった指示を無視することはできない。気難しい人だったのかもと思う。しかし晩年のブラームスの作品には近寄りがたい雰囲気がとれて、弾きたい、この人を知りたいと思うものばかりだった。ブラームスは人間味溢れる作曲家だったと思えるのだ。愛も苦悩も挫折も喜びも知っている。それが瑛子なりの解釈だった。
こんな話してもわからないでしょう?そう和樹に話すと、「わからないけど、わかろうとすることはできる」と彼は言ってくれたので、嬉しくてテーブルの上にウィスキーのボトルを置いた。お好きなだけどうぞ、と言って。
やがて時刻は二十三時を過ぎていたのに帰らない博樹の話題になった。
「日付が変わるまでには帰ってくるでしょう。寝ていてもいいってメッセージが来てたけど、きっとそれほど遅くならないわ。博樹もね、和樹と一緒でできるだけ混んでる電車を避けるの。そりゃ、満員電車が好きなんて人いないでしょうけど、博樹は終電は混んでるから大嫌いだって言ってた。だからその一時間くらい前には帰るはずよ。兄弟ってやっぱり似てしまうものなのね。」
顔つきはちょっと違うけど、顔自体はやっぱり似てるものね。特に目と鼻、あと笑った顔もね。そう言って微笑む瑛子に、和樹はしばらく無言だったかと思うと嫌らしく笑って唐突に言った。
「おまえたち、まだやってないね」
やっていない、という言葉が何を意味しているかはすぐにわかった。全身が熱くなるのを感じる。何を言い出すの、この人は。全身のアルコールがすべて顔に集まったかのように頬は色づいた。余計なお世話、夫婦の問題。いくら義弟といえど、なぜ他人にこんなことを言われなければならないのだ。そう思った瞬間、先ほど一緒においしいものを分かち合った親しい人に嫌悪感が芽生える。瑛子は動揺して少し早口になって言う。
「あなたに関係ないことよ」
そう言って彼の発言を肯定していることにも気づいて、赤らめた顔を隠すように瑛子は若干慌てたように席を立ち、冷凍庫から氷を取り出して和樹と自分のグラスに氷を足す。氷は琥珀色の液体に沈んでゆく。カラン、という氷と氷がぶつかりあう音が美しく響く。
出会ってから半年が過ぎて、入籍して結婚式を挙げて、一緒に住むようになってからもう一カ月以上、いや、二ヶ月近く過ぎた。なぜ博樹は自分に触れないのだろう。忙しい博樹は瑛子が寝室に行くともう眠ってしまっているか、仕事があるから先に休んでと机に向かっているかで、なかなか一緒に眠ることはなかった。でも、果たしてそのせいだけなのだろうか。時間が経てば経つほど博樹を疑ってしまいそうで、好きな気持ちが減っていってしまいそうで瑛子は怖かった。そんな瑛子の不安などかまわないといった様子で、和樹はカラカラとグラスをまわしてウイスキーに沈んだ氷を鳴らす。
「桜井由香」
突然、和樹の口から出た聞いたことのない女性の名前に瑛子は彼を見た。
サクライユカ。さくらいゆか。頭の中で繰り返されている。
氷をいじる彼のその指先は氷で冷えてわずかに赤く染まっていた。和樹は余裕たっぷりの顔をしていて、瑛子と目が合うとにやりと笑った。
「気を付けたほうがいいよ」
怪訝な顔の自分を見る和樹のそのまなざしは決して心配しているわけではないことは瑛子にもわかっていた。
「兄貴の子どもを欲しがってる」
それ以上を彼は言わなかった。ただ瑛子にはまるで何かの暗号のように桜井由香という名前が頭の中でリピートされていた。
そしてやがて帰ってきた博樹の顔をまともに見ることができず、ろくな会話もできないまま、一つのベッドでそれぞれの夜を過ごし、朝を迎えた。その寝顔も背中もやっぱり何も言わなかった。