エスプレッシーヴォ
「子どもだけ欲しいの」
由香から連絡があったのは瑛子と結婚式をして一カ月と少し経ったくらいの頃だった。式の話を人づてに聞いたそうだ。
「認知してほしいなんて言わないし、経済的な支援は一切不要。1人で育てていける。あなたが父親だってことを誰にも言わないわ。昔みたいに抱いてくれなくてもいい。人工授精だってこっちは専門だしね」
軽く笑っているように聞こえた電話越しの声に対して、簡単に言うことじゃないよと博樹は言った。そんなことを気軽にできるようなやつは無責任だ。子どもを産んで育てるということが、どれほど大きなことか。父親のいない子どもがどんな気持ちで育っていくか。それを見守る周囲はどんな気持ちになるか。産んだ本人だって傷つくこともあるはずだ。桜井由香という女性は、産婦人科医としてそれらを痛いほど知っているはずなのに。知っていて自分にこんなことを頼んでくるとしたら、イカレているか悩み抜いた結論なのか。学生時代に好きで一緒にいた相手だけに、後者であってほしいと願ってしまう。
「私には色々なリミットがあるのよ」
その電話越しの声の重さに真剣さが伺えた。そのことがいっそう博樹を悩ませた。悩むという自分にいっそう博樹は悩んだ。病院の更衣室から見える青空がちっともきれいに見えなかった。ばかな話だと思いながらどうしてすぐに「そんなことはできない」と言えなかったのだろう。リミットという言葉が女性には重くのしかかっていることもわかるが、かつて愛した女性といえど、今は過去の話だ。同級生、同業。そのくらいのもの。それでも、他の同じ立場の女性より特別であることは事実だった。
それから数日後のある夜。家に帰ると瑛子はピアノを弾いていた。僕に気付くと手を止めて、扉を開ける僕のために笑顔を用意して、「おかえりなさい」をピアノの前の椅子に座ったまま言った。
その笑顔に、いつもだったら心が温まるのに今日は気がとがめた。先日の桜井との電話、そして会話が思い出される。自分の胸の内を誤魔化すように瑛子に言った。
「何を弾いていたの?」
「何だと思う?」
毎度のことを瑛子は子どものように無邪気に言い、博樹はいつもならショパンと答えるところを、ふと頭に浮かんだ「ブラームス」と言った。自分で言いながら、瑛子のどうして?という顔を想像していた。
ところが瑛子は「よくわかったわね!」と両手を叩いて、まるで真夏の向日葵のように明るく笑った。まさかの正解に博樹は驚いて目を丸くしてしまう。こんなことは初めてだった。
「この間奏曲、作品118-2はね、ブラームス晩年の、亡くなる最後から二番目の作品で恩師ロベルト・シューマンの妻クララ・シューマンに献呈した曲なの。世間から認められる形はなくてもおそらく二人は想い合っていたと言われて、私にはこの曲がブラームスが人生を振り返ったときにクララに届けたラブレターのようなものに思えてしまって、かぎりなく甘く切なくて、私はどんな愛の言葉よりも想いを伝えているように聴こえるの」
瑛子が興奮したように言った。僕には何を言っているか正直よくわからないが、瑛子がこの曲に思い入れがあることはよくわかった。その感激した様子にこちらも嬉しくなってしまう。僕は自然と微笑む。瑛子の笑顔は僕を嬉しくするのだ。
「最初から聴きたいな」
ジャケットも脱がずソファに腰かけてそう言うと、瑛子はまだ興奮したようにちょっと待ってと言って椅子に腰かける。ピアノに向き合って五秒間、じっと鍵盤を見つめ、一つ大きく深呼吸した。やがて決して大きいとは言えない手をゆっくりと動かし始めた。
その演奏を聴きながら、限りなく甘く切なくどんな愛の言葉よりもという瑛子の言葉がよぎる。
その音は僕にはただ切なくて苦しく聞こえた。それでも時おりわずかに希望の匂いがする。そう思うと再び苦悩するようで、甘いのに切ない。これがラブレターだと言うのなら、誰かを想うことはなんて心憂いことだろう。基本的に切ないことなのだと思ってしまう。
瑛子はおそらく彼女にとっても大切なこの曲を全身で奏でる。肩で息をするように、ピアノにのめり込むように、僕に聴かせてやろうというのではない。ただひたむきに曲と向き合っている姿が美しかった。眉間にしわを寄せて音楽の世界に入っている瑛子の姿はどこか遠く感じる。この曲が終わったらちゃんと戻って来てほしい、とすら思う。
弾き終えた彼女は「ね、素敵な曲でしょう」といつもと変わらない笑顔を見せ、再び僕の知っている瑛子になった。僕は情緒的なメロディだね、でも途中、ドキドキするような胸が痛いような感じで悩ましいところもあると言うと瑛子はこのEspressivoのところかしらと言って楽譜を開いた。
エスプレッシーヴォ。表情豊かに。感情をこめて。
博樹は小声でその聞きなれない言葉を繰り返す。開かれた楽譜のローマ字をなぞる瑛子の細い指に自分との誓いの指輪が光っていた。
「どんな感情をこめて弾くの?」
僕の言葉に瑛子は顔を上げた。それは笑顔の中に涙があるような、そんな微笑みで僕をじっと見て、少し考えた後、瑛子は言った。
「想像しきれない何か」
答えにならない答えに、瑛子は自分で言って笑っていた。その笑顔がこれほど切なく見えたのは、自分のうしろめたさゆえか。作曲家の想いゆえか。
ブラームスは何を思ってこの曲を作り、恩師の妻クララ・シューマンとやらに捧げたのだろう。博樹は夫婦ではない形で互いを思いやる二人の偉人のことを思いながら、その夜を過ごした。
それから瑛子との関係がおかしくなったのは、その一週間後の当直明けの日からだった。