エスプレッシーヴォ
和樹が変な話をした。あの夜一緒に食べたおいしいお好み焼きもスペインの赤ワインも遠い日のことのようになってしまうほど、おかしな話だった。

ずるい、ひどい。そう言う言葉が出てきたのは、深夜に1人になってからだった。
それまではただ、桜井由香という名前と博樹の子どもを欲しがっているという和樹の言葉が繰り返されて、その意味や事実を考えたり、その女性がいったい誰なのか、博樹自身は何を思っているのかを想像したり、わからないことだらけで混乱していたのだ。

ずるい、ひどい。それは自分にこんな話をした和樹に対してのことだったはずなのに、矛先は博樹にも向かっていった。その話を聞いてから瑛子の心は落ち着かなくて、博樹がいる前ではつとめて平静を装っていたつもりだが、限界が近いと思った。

ベランダに干してある博樹の洗濯物も、飲み残したコーヒーにも何かを感じてしまう。こっそり見て喜んでいた彼の寝顔をふと睨んでいた自分に気付いたとき、瑛子はこのままではいけないと思った。博樹本人に問いただす段階でないとは思っていたので何も言えなくて、言いたくなくて、瑛子は自分が何かを知っていると気付かれたくなかった。
一週間の間にどのくらい心が休まっただろうか。眠れなかった日と眠れない疲労でよく眠った日が交互に続く。思い切って博樹が当直の夜を狙って瑛子は思い切って和樹に会いに行った。

和樹の連絡先は知らないので、昼休みを狙って病院に問い合わせた。病院の総合案内に電話をして「親族ですが」と言うと、電話に出た女性は少しためらっていたようだったが、名前を名乗るとようやく内線につないでくれて和樹が電話に出た。和樹は瑛子からの電話を待っていたかのように「いつでもいいよ。今夜?二十時過ぎなら」と言って、すぐに会うことを快諾した。

二十時に病院のある御茶ノ水駅の出口で待ち合わせた。地下鉄の出口からは生暖かい空気が立ち込める。湿気がべとついて邪魔になる前髪をかき分けて夜の街を見る。わずかだが雨が降っていて余計に気分を落としてくれた。六月の雨はとても冷たい。和樹は傘も差さずに小走りでやって来て、夜の暗闇でもその背格好ですぐにわかった。博樹によく似ていることが切なかった。五分の遅刻など口にも出さない瑛子に一樹は明るく言った。

「肉食べよう。肉。うまいジビエ出す店あるんだよ。ワイン飲みたいだろう?近くにちょっといいビストロあってさ」

和樹はいつも通りの朗らかな様子だったが瑛子は正直、食事などどうでもよかった。でもそれは目に見えてエネルギー不足となっている自分への気遣いかと思うことにした。
とにかく話がしたかったが、和樹はまるで友人と食事を楽しむかのように嬉しそうにドリンクのメニューをめくっていた。
彼が頼んだシャンパンで軽く乾杯をして、軽く口を湿らせて、瑛子はグラスの底から静かに昇ってゆく気泡を見つめながら言った。

「なんであんな話をしたの」

和樹もまた瑛子の顔を見ていなかった。お酒に強い彼の興味ははやくも次のドリンクに移っているようだ。

「まだ前菜もこないうちから。せっかちだな。とりあえず軽く食べよう。サラダとか、パテとかどう。俺が尊い労働で得た給料でおごるから好きなもの頼みな。ワインも遠慮せず」

研修医って薄給なんだぜと言って、和樹がメニュー表を差し出す。カジュアルな手書きの文字で書かれた料理は店のほどよい騒がしさと品のある雰囲気によく合っていた。カウンターのサイドにも小さな黒板があり、鮎の香草焼きなど手書きで本日のおすすめが記載されていた。

瑛子は軽くつまめるオリーブとサーモンと柑橘のマリネを頼んだ。会話の邪魔をされたくなかったので、一通りの料理と飲み通せるワインを重めの白ワインを頼みボトルで置いていってもらった。何も知らない店員は二十代の若いカップルにサービスするかのように笑顔で料理やワインをテーブルに並べていく。

「どうして?」

料理をいくらか食べた後、ワイングラスをテーブルに置いて怪訝な顔つきで瑛子が和樹を見ると、ほどよくアルコールが回って気分がよくなってきた彼はようやく話をする気になってくれたらしい。瑛子のどうしてという言葉が何を意味しているかをわかっている一樹は口角を上げて嘘みたいに明るく微笑んで言った。

「気まぐれだよ」
「うそ」
「うそじゃないって」

和樹はグラスに残っていたワインを飲み干す。すかさず近くにいた店員がワインクーラーのボトルから液体を注ぐ。空になったボトルに「お次は」と聞かれて一樹は笑顔で料理に合う赤をと注文する。頷いた店員が離れていくと、彼は言った。

「兄貴のこと信じ切っているお前に教えたかっただけだよ。あいつにも秘密はあるんだって」
「秘密って。博樹が意図的に色々なことを私に隠しているって言いたいのね」
「そうだよ」

不満そうな瑛子に対して和樹は鴨肉のコンフィにナイフを入れながら堂々と、はっきりと言った。
「俺は、お前たちがどうなろうと関係ない。だけど、言っただろう。兄貴のことを信じ切っているから、教えたかったって。それだけだよ」

一瞬、まるで獣と獣のように、にらみ合うように見つめ合って、瑛子は口の乾きを潤すためだけにワイングラスを口に運んで言った。

「信じ切っているほど、知らないのよ」

そう言うと自分でもみじめでたまらなかった。その言葉は和樹にも予想外だったらしく、彼はわずかに眉をひそめて「瑛子」と言った。自分の名前を呼ぶ声は博樹のそれとよく似ていて、瑛子はこらえていた涙があふれそうになった。

「名前を呼ばないで」

小声だったけど口調は強かった。顔は見えなかったけれど、和樹はどこか申し訳なさそうだった。わずか数秒の妙に長い沈黙の後、和樹がため息のように一つ大きく息を吸って言った。

「桜井由香っていうのは、兄貴の昔の彼女だよ。大学の同級生だったんだ」

大学のときの同級生。女医さんかしら。そう思って顔を上げると和樹が言った。

「相手は山形の産婦人科の一人娘で本人も産婦人科医になってて、家業を継ぐために地元に帰らなきゃで、それで兄貴とは別れた。別に結婚しなくても生きていけるけど子供は欲しい。だったら好きだった男の子どもを、って話」

和樹の言葉は短い単語をつなげたような言葉だったが、だいたいのことが理解できたし、同時に色々な考えがいっきに押し寄せてきた。
自分と同じ一人娘で、嫁いで家を出た自分と、家業を継ぐという使命感を持って恋人と別れて実家に帰った女性。好きなピアノを弾いて料理をして博樹の帰りを待つだけの自分と、尊い命を守る仕事をする女性。でも同じ女性として好きな男性の子どもを残したいという気持ち。胸よりもお腹、特に子宮のあたりがぎゅっと掴まれたような感じがした。下腹部まである柔らかなニットに瑛子は自然と手を伸ばしてしまう。誰かを残したいと思うこと。誰でもいいわけではなくて、自分と誰かの特別なことで、自分と相手を残したいと切望すること、これからも続いていってほしいと思えること。
嫌いになって別れたわけじゃないなら、なおのこと。ふと思う。桜井由香さんは今も博樹を好きなのではないかと。もしかしたら、博樹も。
急に険しい顔をした瑛子が言った。

「なんで和樹がそんなことを知っていて、私に話すの」

怪訝な顔をした瑛子を前に和樹は視線をテーブルの上に移した。お皿の上にはむなしそうな姿の鴨肉の骨の残骸があった。
瑛子にはその桜井由香の背景や心情に詳しいことが引っ掛かった。和樹は由香さんの味方なの?そんな想いを察してかどうかはわからないが、和樹が笑った。

「俺は別に兄貴のこと好きじゃないから」

瑛子自身も泣きたい気持ちだったのに、夫によく似た顔で微笑む義弟が瑛子には泣いているようにも見えた。目の前に灯された小さなキャンドルの存在なんてとてつもなくはかなくて、残されたグラスの赤ワインもきれいに食べられたはずの鴨肉も骨も寂しそうで、料理のおいしさと心の満足度がひどくアンバランスな夜だった。

翌日当直から帰ってきた博樹に対して、瑛子は作り笑いをすることさえ難しかった。
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