エスプレッシーヴォ
その後、博樹から由香に連絡をすることもなく、彼女から連絡が来ることもないまま時間が過ぎた。
あの電話などなかったことになったほうがいい。博樹はそう思って着信履歴を消した。まるで隠すみたいだとも思いながら。もちろん瑛子は僕の携帯電話を見るようなことはしないし、後ろめたいことがあるわけではない。それでも博樹はあの話を忘れたかった。
しかし、別れてから数年が経ち、それでも連絡するくらいなのだ。彼女が自分を忘れることはないだろう。あの電話だって、きっと思いつきなどではなく、考え抜いた末の結論に違いない。リミットがある、という桜井の言葉を思い出す。妊娠・出産はできる年齢が限られている。医療が進歩して卵子の冷凍保存や高齢出産も話題になるが、妊娠だけではない、産んで育てる、子どもの成長を見続けること、その責任を考えれば、やはりリミットはある。
ふと視線を向けた窓の外には車いすに乗っている高齢患者の姿が小さく見えた。娘とみられる女性に車いすを押されて、病院の小さな庭の隅を通り過ぎてゆく。当然のことながら誰しも歳を取るし、寿命もあるのだ。
いや、まだ三十代前半じゃないか。若々しく動き回る桜井の笑顔が浮かぶ。活発で、はきはきと返事をして、てきぱきと作業をこなしてゆく彼女の姿が浮かぶ。
「実家を継ぐことは博樹と出会う前から決めていたことだから」
そう言って別々の道を選んだ。もしかしたらどうにかなるのではないか。何か状況が変わるのではないか。そんな希望を持ちながらずるずると七年も付き合っていたが、都合のいいようにいくわけがない。幼くも全力で恋をしていた若い自分たちを思い出す。
「山形もいいところよ。遊びに来ることがあれば教えてね。博樹が私にとって特別な人であることはこれからも変わらないから」
とてもつらく苦しい決断だったが、お互いにまだ若くて希望に溢れていて、泣いて別れるようなことはなかった。あの時の言葉は嘘一つない本当の気持ちだったのだろうと思える。最も、当時から疑ってはいなかったが、祈りに近かった。そうだね、ずっと大事な仲間でいられたらいいね、と。
人それぞれ事情はあるものだ。そしてふと今現在の彼女に何か特別な事情、例えばどこか悪いところでもあるのだろうかと気になった。それは医師としての自分より、友人を心配する自分のほうがはるかに大きかったけど、決して放っておいていいものではない。もう少し詳しく話を聞いたほうがいいのではないだろうか。博樹はそう思った。
しかし忙しさもあって自分から連絡することもないまま、時間が過ぎた。
それは桜井から電話があって半月ほど経った頃だろうか。更衣室から出るとちょうど中川と会った。消毒の臭いをたっぷり含ませて、心なしか血の臭いを漂わせて、顔は汗でてかっていた。オペは長丁場だったのかもしれない。お疲れと博樹が言うと、愛想のいい中川は疲れなど感じさせないようにぱっと表情を明るくした。
「そうだ、そうだ。お前に会ったら言おうと思ってたんだ。来週の土曜さ、学会とか研修とかいろいろ重なって東京来るやつ多いみたいなんだよ。集まれるやつだけでも集まって飲みに行かないか」
みんなというのは当然同級生のことだ。
へえ、いいね。久しぶりに会いたいね。予定を空けておくよ。いつもと変わらない笑顔で博樹は言った。桜井がいてもいなくてもそう言っただろう。けれどそのときに真っ先に顔を思い浮かべたのが桜井だったことに気付いて、博樹はまた少し戸惑う。彼女を気にかけている自分がずっといる。
その土曜日の前日の午後、昼食後のコーヒーとともに一息つきながら博樹は医局からメールを送る。相手は瑛子ではない。
かつての恋人に送るメールはどこかよそよそしい。わざとそうしているかもしれない。彼女からはすぐに返信があった。参加予定、久々の飲み会が楽しみ、というあっさりした内容で、彼女らしいなと思いながら博樹は了解とだけ返信し、個人的な約束はしなかった。それでもその日に自分たちは大切な話をするだろうと思った。前向きなことを話合うはずなのにこれほど後ろめたい気持ちになるなんて。家に帰る合間、博樹は複雑な気持ちだった。後ろめたいという気持ちがあることこそが問題ではなかろうかと思ったのだ。彼女の相談に応じることはない、それは決めている。でもそのネガティブな感情は緩やかに続いた。
そのちょっとした同窓会の一次会は西新宿の飾らない居酒屋で行われた。集まったのは一部ではあったが、十数人の顔がそろった。土曜日ということもあって山梨や群馬から特急で駆け付けた者もいた。
テーブルの一番端にいる桜井のことは気にしつつも気にしていないふりをしていて、いつもなら引き上げる二次会にも参加して、西新宿のホテルのロビーラウンジで半数ほどになった人数で飲んだ。このバーではピアノの生演奏をしてくれるのだが、正直団体客の自分たちにとってはまるで意味をもたない、ただのノイズだ。
あっというまに11時をまわり、終電を気にし始めた者たちにあわせて一同は席を立った。それから新宿駅から電車に乗る者、そのままホテルに泊まる者、気ままに飲みに行くものに別れ、自然な流れのように博樹は1人の女性と同じホテルの別フロアのラウンジにいた。
ビロードのなめらかなソファは二人掛けで、贅沢に一人ずつ腰かけ、都会の喧騒を忘れる。
彼女の前に置かれた細いグラスのおだやかな赤色が艶やかなキールはカクテル言葉で「最高の巡り会い」を意味する。大学生になって初めて彼女を見たときの衝撃、言葉を交わしたときの胸の高鳴りを思い出す。彼女に触れ、抱いた時の喜びも切なさもむなしさも。彼女と出会えたことをありがたく思う色褪せない青春がそこにある。
桜井を見ると、初めて会ったときと変わらないはっきりとした二重の瞼を一度瞬かせて、「なに?」と涼しそうに微笑んだ。
何から話したらいいのか迷った博樹は、元気そうでよかったなどと言う。その言葉に博樹もね、お互いにハードだものね、いや産婦人科医ほどじゃないよ、なんて会話をして、グラスの飲み物はすぐに減ってゆく。彼女も飲めるほうなのだ。
なかなか納得できる男っていないものよ。そう言ってキールを飲み干すと、もう少し飲もうと誘われて由香はモヒートを、博樹はスコッチウイスキーを頼む。オーダーを聞いたウエイターが立ち去ると博樹が言った。
「僕は結婚している」
「結婚していなかったらよかった?」
適度に距離が作られているとはいえ、周囲の人に聞こえやしないか戸惑う博樹に対し、由香は何食わぬ顔で言う。もっとも、このバーの従業員はこういった話も聞き流すことに慣れていそうで、うまくかわしてくれそうだが。
「私の気持ち、電話したときと変わらないわよ。あの話、私がおかしくなったのかって思った?別に正常よ。親のすすめでお見合いもしたし、結婚相談所にも登録してみた。何人ともデートした。でも、結婚とか、出産とか、子育てとか、どうもイメージできない。いつも博樹が浮かんでしまう。やっぱり、どうせならって思っちゃうの。私たち、嫌いで別れたわけじゃないし。迷惑かけない。安心していいわ。大丈夫だから」
ね、と微笑む顔はよく見た顔で、六年も一緒のキャンパスで過ごしたはずなのに少しも安心しない。
飲んでいたアルコールが急にどこかへ消えたように、まじめな面持ちで、ウイスキーの入ったグラスを置いて両手を膝の上で組んで博樹が言った。
「きみは専門職として無責任な妊娠や出産の問題を痛いほど知っているはずじゃないか。簡単に言うことじゃないよ」
由香はその真面目な博樹の顔を見て、一瞬だけ見とれたように笑顔を見せて、言った。
「だからこそよ。望まれて生まれてくる喜びを見ているからでしょう。いい加減な気持ちで向き合えない。求めて、心の底から望んで、そうやって手にしたい、手にするべきって思ってる。あなただってそうじゃないの?いい加減な気持ちでは奥さん抱けないでしょう。」
話題を自分に投げかけられて僕はつい動揺する。真相は違うのだろうが、まるでまだ瑛子を抱いていないことを知られているみたいだと思い、そしてそれを隠すみたいに僕は手に持っていたグラスのウイスキーを口元に運ぶ。冷えた琥珀色の液体が喉を通り過ぎてゆくとしだいに奥がかあっと熱くなる。
きみには関係ない、と言おうとするところをぐっと抑える。するとなぜそんなことを彼女が言うのかが気になり始める。博樹はもう一口、グラスの液体を口に入れる。
「僕は結婚したんだ。それがすべてで、それだけだ。でもきみが心配になったのは嘘じゃなくて」
それ以上言えないまま、博樹は右手を額に当てて俯いた。由香の顔を見ることはできなかったのだ。テーブルの上のグラスを見ながら、何かあったのか?と聞くと由香はモヒートが入ったロンググラスに刺さったマドラーでミントの葉を潰して香りを楽しんでいた。やがて視線をグラスに向けたまま、よくあることよ、と。ゆっくりと静かに話し始めた。
親の病気と老い。自分自身も決して若くはないこと。理解していた出産のリミットは決して遠い未来ではないこと。子どもを残すことの意味。それらを十分理解し、考えた上での連絡だったこと。博樹が変わらずに特別な存在であること。このとき、少しだけ照れたような、まるで付き合い始めの頃のような顔を見せられたことが、いっそう博樹を戸惑わせた。久々に会った彼女が知らない誰かになっていてくれたら突き放せたのにと思う。ウエイターの男性が視線に入るたびに現実に連れ戻される。
顔をあげると目の前に何度も触れた頬や重ねた唇、懐かしい小動物のような黒目がちな瞳があり、遠い記憶と重なる。でも思い出だ。思い出なんだ。
「なんで結婚したの?」
澄んだ瞳で彼女は博樹を見た。率直で短い質問に戸惑う。桜井の言葉はすべての人の代弁のように博樹の胸を打った。なんで結婚した?彼女を抱くこともせず、子どもを作ることについて話し合うこともなく、お互いのことを理解できるだけの時間を作ろうともせず、ただ慌ただしい日常の一部を分けあっている。一緒に暮らすようになってまだ日が浅いとはいえ、もっぱら忙しいことを言い訳にしているのは自分だけで、瑛子はそれに合わせてくれているだけだ。親に結婚をすすめられ、父親の旧友の娘だからと気楽に会い、悪い気はしないまま流れるように結婚した。それほど結婚願望が強かったわけではないが、いずれしなければならないのならと思ったのは事実だ。その瞬間、いつだったか中川に「お前は義務で結婚したんだと思った」と言われたことを思い出す。
「由香、僕は」
彼女の名前を呼びながら、僕は夫婦の形にならずに、違った形で想いを貫いた二人の偉人と美しいひとつの曲が浮かんだ。あの切なく苦しいメロディが言葉の代わりに何かを全力で訴えているようだった。
「あなたの子どもが欲しいのは本当。あなた以上に好きな人ができない」
瑛子を抱かなかったのは、抱かないことが誠実だと思っていた。それはかつて愛し全力で1人の女性を求めたことを知っていたからだ。
再び目の前に現れた愛しかった女性は過去の姿とは同じではないが、それでも、この心を揺さぶる。
その夜、瑛子と結婚して初めて日付を越えてタクシーで帰宅した。