エスプレッシーヴォ
和樹から話を聞く前だったら、ああ、飲みすぎているのかな。電車が止まったのかな。何かアクシデントがなければいいな、という心配だっただろうが、今は違う。

どこで誰と何をしているのだろう?

そんなことを考えてしまう自分に苛立ちながら瑛子はグラスに赤ワインとカシスリキュールを入れて、適当にカクテルを作る。博樹が見たら笑いながら「リキュールじゃなくて炭酸水で割ってスプリッツァーにしたら」なんて控え目に健康を気遣うに違いない。

せっかく大学生の頃よりずっと色々なお酒を飲めるようになったのだ。楽しんで何が悪いの、と今なら口答えするかもしれない。博樹は普段たくさんのお酒は飲まないが、食事をおいしくいただく程度や、週末の夜をゆっくり過ごすためにウイスキーなどを軽く楽しむ。もともと瑛子の両親もお酒が好きだし、医者と言っても健康によいことすべてを守っているわけではない。たまに飲みすぎて、歯も磨かずにそのまま眠ってしまっていた父の姿だって見たことがある。

でも博樹は父よりずっと真面目で、「女性は男性より酔い易いから」とか「食べながら飲まないと胃が荒れるよ」とおせっかいのように、でも控えめに世話をやく。彼がそんな心配をしないように家には常に炭酸水やミネラルウォーター、チーズなどの軽くつまめるものは常に用意している。でも今はナッツすらつまむ気になれない。ただこの不安を誤魔化すために酔いが冷めてしまわないように少しずつアルコールを体内に取り入れて、状態を一定に保っている。

手元のグラスに注がれた深みのある赤い液体を見る。このワイングラスはやや大きめで、このグラスを持つと、いつも博樹の手を思い出す。大きな手。少し不健康そうな白く細く長い指。この手があったらどんな曲も余裕で弾けてしまうだろう。想像する。その手で髪にふれてもらうこと。頬を撫でてもらうこと。自分の手と重なり合うこと。この家で彼と一緒においしいものを食べても、きれいな曲を聴いていても、一番近くにいるはずなのに遠いと思う。

その夜、結局博樹が帰ってきたのは午前一時を廻っていた。こんな時間に博樹が帰ってきたことは初めてだった。
玄関の鍵が開く音に瑛子は即座に反応する。灯りのついた室内でお酒を飲んでいた瑛子に驚いた博樹が「起きてたの」と言いながら入ってくるので、瑛子はつい感情的になりそうなのを抑えながらわずかにトゲのある口調で言った。

「もうすぐ帰ってくるはずと思いながら、つい、つい、夜更かししちゃったわ」ついでにお酒も。そう言葉にして、嫌味っぽいなと思ってすぐに反省する。出会ったばかりの頃はもっと素直に言葉にしていたはずなのに、うまく伝えられない。気を遣っているつもりが皮肉になっている。想えば想うほどどんどん難しくなってしまう。気休め程度に流していたショパンのノクターンのCDを止めて、嫌味ついでに「一緒に一杯いかがですか?」とまるでどこか飲み屋の店員のようにふざけながら至極丁寧に微笑んで博樹を誘う。立ち上がって博樹の上着を預かるようなことはしない。たとえお酒を飲んで帰ってきても、身の周りのことを彼は1人でできてしまうから。

博樹はそんな冗談も適当に交わしながら、今夜はもういいよと言ってジャケットを脱ぐ。

「何時から飲んでいたの?」

彼は夏用の風通しのよい上着をハンガーにかけながら少し心配そうに瑛子に聞いた。

「夜の八時くらいからかしら。でもずっと飲み続けていたわけじゃないし、つい、ついという感じ」
「飲みすぎると危ないよ。わかっているだろうけど」

博樹は遠慮がちに心配している顔つきをしていた。こんな夜遅くまで自分も飲んでいたくせに無責任な心配。
そうね、と言いながら、瑛子は弱々しく返事をする。心配してくれているのにちっとも嬉しくないのは博樹のせいだ。アルコールの力も加わってあらゆることが理不尽に思えてしまい、目の前にいる男に当たりたくなる。

和樹から聞いたのよ、あなた昔の彼女と連絡を取っているでしょう、私が同じことをしたらどんな気持ちになるのと責めて、気にならない?どうでもいいの?だったらあらゆる優しい嘘は必要ないわ。

そう言いたくなる。でもそんなことをしたらこの人と一緒にいられなくなってしまうかもしれない。
どうして私と結婚したの?といつも聞きたかった。でも聞かなかったのは彼の本当の気持ちを知るのが怖かったからではなく、本当の気持ちを言ってくれると思わなかったから。いつだって博樹は私に丁寧で親切で優しくて、心配してくれて、私が望めば愛の言葉もくれるだろうし、最後まで抱いてくれるかもしれない。望むように喜ばせてくれるかもしれない。でもそんなことでは決して解決しない、本当の本当に彼が自分を必要だと求めてくれない限りは満たされない。そうやって満たされないものがあるまま、出会って結婚して今日まで来てしまっていたのだ。

和樹は言った。兄貴のことを信じ切っていると。でもそうじゃない。信じ切れるほど彼を知らないのだ。その事実にくちびるをきゅっと噛む。泣いてわめいて彼にしがみつけたら少しは楽になるだろうか。困っている彼の顔を想像してぐっと感情を飲み込む。いい女でしょう、ものわかりのいい大人だものというように微笑んでみせる。嘘だ。本当は少しもそんなことない。

「もう寝るわ。残りは博樹にあげる。赤ワインとカシスを混ぜたの。おやすみなさい」

グラスを差し出して丁寧に微笑んでみせて、瑛子はぺたぺたと情けない足音を立てながら寝室に引き上げる。まるで逃げるようだ。しばらくしたら彼はそろり、そろりと音も立てずに二人のダブルベッドに入ってくるだろう。そのとき彼は何も言わない私の背中を見て何かを思ってくれるだろうか。残されたテーブルの上にある赤い液体の入った一つだけのグラス。赤ワインとカシスリキュールで作られたカクテル、淡く済んだ赤い色のカーディナルは「優しい嘘」というその言葉を、瑛子の代わりに博樹に伝えているようだった。
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