ことほぎのきみへ
……うん


泣き跡も残ってない

目も鼻も赤くない


大丈夫


鏡で確認してから、私は2階の
あのアトリエのような部屋にいたひさとさんに声をかけた



「……ひさとさん。あの……」



大きなキャンバスの前で、何かを考え込むように
じっとしていたひさとさんが

私の声に反応して振り返った



「……ちょうど良かった。いろは」


「はい?」


「少し、付き合ってくれる?」




……
……
……




ザザンザザンと耳に心地良い音が響く

ぽかぽかとあたたかい日差しに照らされて
きらきら輝く海



「気持ちいいね」


「はい」


スケッチブックに絵を描いていたひさとさんは
手を止めて、海を眺めて

それから言葉通り
気持ち良さそうに目を細める



「いろはと初めて会ったのも
ちょうどこの位の時期だったね」


「……そう、ですね」



もうかなり昔の事のように感じる


あの日

ひさとさんと出会った日



学校をさぼって、ここへ来たらひさとさんがいた

今みたいにスケッチブックに絵を描いていた



帰る気にもなれなくて
なんとなく私はひさとさんの傍にいた


ひさとさんは
突き放しもせず、邪険にもせず


そこにいることを許してくれて


暗い中にいた私に掬いの言葉をくれた



その言葉がずっと私を生かしてくれた



暗くて深いあの場所を何度も照らして
出口があることを教えてくれた
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