花に宿る



 病院を出るころにはすっかり日が暮れていて、ぼんやりとした空からは雪が降っていた。そっと、音もなく降りてくる雪は、僕の髪や服に容赦なく染み込んでじわじわ濡らしていく。傘はない。僕はその足で大学に向かった。植物生理学研究室の、古ぼけた扉を開ける。そこには後輩がひとり残って、ノートパソコンに向かっていた。

「レポート?」

声をかけると、顔を上げた彼が僕を見て目を丸くする。

「一木さん、びしょ濡れじゃないっすか」
「雪に降られて。傘置いて行っちゃっててさ」
「今日は一日傘必携って、天気予報で言ってたのに」
「そうなんだ。知らなかった」

後輩から受け取ったタオルで髪を拭きながら答える。

「……永咲さん、どうでした?」

僕が顔を拭いはじめたところで、後輩の小さな声が耳に届いた。遠慮がちに僕を覗くその目が、不安そうに揺れている。
僕は微笑んだ。

「今日は調子が良さそうだったよ。スノードロップが咲いたって教えたら、喜んでた」
「そうですか。よかった」

僕の言葉に、後輩は少し胸を撫で下ろし、息を吐く。そして、ベランダで雪に濡れているスノードロップを見つめた。

「永咲さんは本当に花を育てるのがうまいですよね。永咲さんじゃなきゃ、ああならないです。……早く戻ってきてほしいなあ」
「……うん」

僕も後輩の視線を追って、スノードロップを見つめた。つややかな茎の深い緑、花びらの透き通るような純白、根から花の頭に向かうまでの、儚くて優しいしなり方。それは、どれを取っても見る者の心を打つ、完璧で危うげな花の姿だった。

けれどそのとき、僕の脳裏には、あの花が鮮やかによみがえっていた。あの花。彼女がまばたきするたび揺れる、あの美しい花。

 僕は徐にズボンのポケットから小瓶を取り出した。その中から、さっき採取したばかりの群青色の花弁をピンセットでつまみ出してプレパラートに乗せる。もう体に染みついてしまった、慣れた作業だった。それなのに僕の指先は震えていた。鮮やかな群青が、バニラのような甘い香りが、僕をどこまでも焦らせた。

 早くしなければ。

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