キリンくんはヒーローじゃない
抱きしめたい気持ちを我慢して、台本の表紙に提げられていたペンを取り、キャップを外した。
「そんなので満足するなんて、ばかみたい」
わたしは、裏表紙に彼の名前とメッセージとを書いて、強引に渡した。
「そんな偽物の言葉より、本人の言葉のほうが何倍も嬉しいはずでしょ」
裏表紙をこっそりと盗み見たキリンくんは、表情が緩んでいくのも構わずに、ただ嬉しそうに眺め続けている。
「嬉しい。ありがとう」
当たり障りのないメッセージだったはずだ。それがこんなにも喜んでもらえるなんて、彼のためになにかをしてあげたくなる。
「…文化祭、無事に成功したら、黄林くんのお願い、一つ聞いてあげる」
彼への想いに気づいたわたしにとっての、精一杯の歩み寄りだ。知らないうちに想いは実っていたとしても、今まではツキ先輩と付き合っていた身。いくらなんでも虫がよすぎる。
「お願い?」
「叶えられるお願いなら、なんでも言って」
キリンくんは、顎に手を当ててしばらく考えたあと、思いついたように笑った。
「狐井さんとメッセージのやり取りがしたい」
そういえば、これだけ一緒にいるのに、お互いの携帯番号だとか、連絡の手段を持ち合わせていなかった。自分の電話帳を開いて、母、父、マドカちゃん、サジマ以外にキリンくんが入ってくると思うと、自然とドキドキした。
「全然いいよ。わたしも知りたいし…」
「よかった。…断られるんじゃないかって内心冷や冷やした」
キリンくんが、自分のポケットに入っている携帯を握りしめ、喜びを噛みしめた笑顔で微笑む。
「…それじゃあ、行くね」
保健室の壁に設置されている時計を目にし、椅子から立ち上がる。名残惜しげに遠ざかっていく足音は、時折、わたしを振り返っては、止まる。
「黄林くんなら、大丈夫だよ」
「…うん」
次の開演時間まで、五分ちょっと。耳朶を赤くした彼が、扉を乱暴に開けて飛びだしていった。