キリンくんはヒーローじゃない
「さて…小梅ちゃん?」
彼は、机の上に広げてあった日誌に目を落とすと、突然、わたしの胸に爆弾を投げてきた。
「こ、小梅ちゃん!?」
「え。あれ、違った?日誌の名前記入欄に小梅って書いてあったから、君のことかと思ったんだけど…」
確かに、書いた。日誌を押しつけられたのに、彼女の手柄となってしまうのが嫌で、せめてもの反抗でわたしの名前を正直に書いてやろうとして、"狐井小梅"と雑に記していた。
「間違ってはないですけど、なんで小梅なんですか…」
「ああ、そっか。初対面なのに馴れ馴れしかったよね、ごめんね。…名字が読めなかったからつい名前呼びしちゃったんだけど、嫌だったかな」
ばつが悪そうに視線を下げる彼は、本当に申し訳ないと思っているようで、頭を抱えて、あからさまに落ち込んでいる。
そっか、そうだよね。狐と井って漢字、普通に呼んだら"キツネイ"ってなるけど、それが正しいかどうかはわからないから無闇に呼べないよね。
「…"キツイ"って言います。ちょっと、読みづらいですよね」
彼は「キツイさん…」と呟きながら、スマートフォンを取り出して、何やら画面に打っていく。
「狐井小梅さん、っと。よし、できた」
華麗な指のタップを数秒間ほど眺めたあと、不思議そうに首を傾げたわたしを捉えた先輩は、満足げにスマートフォンの画面を見せてくれた。
「メモ帳?」
「そう!俺、ひとの名前を覚えるの苦手だからさ、こうして覚えておきたいひとのこと、メモしておくの」
そこに映っていたのは、狐井小梅の文字だった。ご丁寧に漢字だけではなく、振り仮名まで振ってくれている。
でも、意外だった。成績優秀な彼のことだから、てっきりひとの名前や顔を覚えるのは得意なのだとばかり思っていた。
「ここで会ったのもなんかの縁だし、ぜひ仲良くしてね。狐井さん」
ひとのことを覚えるのが苦手だからって、全然マイナスポイントにはならない。むしろ、スマートフォンにメモまでしてくれて頑張って覚えようとしてくれている姿は、とても好感が持てる。