キリンくんはヒーローじゃない
「こちらこそ、ご迷惑でなければ…!」
「なに言ってるの、狐井さん」
「え?」
彼は、わたしの両手を包み込み、何故だか機嫌を損ねたように眉を歪める。
「迷惑だとかそんなこと思ってないし、俺が仲良くしたいって思ってるんだからそれでいいじゃん」
先輩は、不思議だ。いつでも後ろ向きで自信の持てなかったわたしを掬いあげて、素敵な言葉をプレゼントしてくれる。わたしがわたしでいてもいいんだと、存在を肯定してくれる。
「ありがとうございます、先輩」
「先輩なんて堅苦しいじゃん。名前で呼んでよ」
そう言うと、黒板に向かって歩いていった彼が、白いチョークで自分の名前を広々と書いた。
「俺の名前は斎藤月。月でいいよ」
「呼び捨ては無理です…!」
「…じゃあ、月先輩でもいいや」
ツキ先輩は黒板消しで自分の書いた文字を消すと、すぐにわたしの目の前にきて、期待を込めた眼差しで見つめてくる。
「………月、先輩」
「はい、よくできました!」
心の底から嬉しそうに、端正な顔をしわくちゃにさせて、笑う。溢れるほど大きな瞳が瞼に隠れると、綺麗なアーチ型ができあがって、まるでそれが空に浮かぶ三日月のようだ。ツキって名前にぴったりで、思わず感嘆した。
「俺、なんか手伝ってあげるよ。日誌ってどこまで終わってるの?」
彼が、見開きぱなしだった日誌を持ち上げてよくよく眺めている。
「…って。全然終わってないじゃん!狐井さん、今までなにしてたの?」
クラスメイトから押しつけられてやる気が出なくて項垂れてたとは言えず、言葉に詰まる。
そんなわたしを見兼ねてか、隣の席に腰を下ろしたツキ先輩は、わたしのペンケースからシャーペンを引ったくって、迷いもなく書き進めていく。
「え、ちょっと先輩?」
「狐井さんの担任、ショーコ先生だろ。ショーコ先生は、自分の授業以外は別に適当に書いたって怒られないんだ。そういうひとだよ」
ツキ先輩は、目にも止まらぬ速さで書き上げていく。自分のクラスのことじゃないのにここまでデタラメを書けるって、ある意味才能だと、苦笑いを溢した。