キリンくんはヒーローじゃない
「生徒たちの隣に座らせてやりたいんだが、生憎満員でな。すまねぇが、俺の隣でも大丈夫か?」
「全然大丈夫です。むしろ、他クラスのわたしがお邪魔をしてしまって、すみません」
気にすんなよ、とキャップの蓋を外した江藤先生は、既に印字された自分の名前の隣に、目立つ字で狐井と書き記した。
「…ずっと思っていたんですけど、江藤先生って、古典の先生なのに字が随分と個性的ですよね」
「なんだそれ。ばかにしてんのか、褒めてんのかどっちだ?」
一概に下手くそとは言えないけれど、一文字一文字がやたらと大きいので、バランスが悪くなり、字が汚く見えがちだ。だけど近くで見る分には、見やすくて良心的であることは間違いない。
「…あれ、狐井さん?」
列の最後尾にいたはずのキリンくんが、ヘッドホンを首にかけて、駆けてきた。
「お前…またひとの話を聞かないで、音楽聴いてたな!一応、ちゃんとした行事なんだから、最低限の興味は持てよ」
「うるさいな、先生。林間学校なんて面倒臭いだけでしょ」
キリンくんが無意味に怯えてない。吃ってすらない。こんなに堂々としたキリンくんを見たのは、初めてだった。
姿勢を低くした戦闘態勢で江藤先生に食ってかかるさまは、まさに猫の威嚇攻撃そのもので、なんだかかわいらしい。
「黄林くんって、江藤先生にはそんな感じなんだね」
わたしの言葉を耳に入れたキリンくんは、その場で氷のように数秒固まり、ゆっくりと状況を理解すると、確かな足取りで後退していく。行き止まりの壁に背が当たると、くるりと反転して、額を壁に引っつけた。
「わ、忘れてください…」
消え入りそうなか細い声で、ぽつりと呟く。見えるはずがないのに、キリンくんの頭上には、火山が噴火したあとのような白い湯気が立ち昇っていた。それはゆらりゆらりとしばらく空中に留まると、吹き込んできた風に操られて、外へと消えていってしまった。