キリンくんはヒーローじゃない
「えー、俺は江藤兼睦、四十三歳。家には齢四歳の娘と三十五歳の妻がいる。趣味はボードゲームだけど、娘ができてからはあまりやれていないな。はい、終わり」
エトウカネチカ、右から左へと受け流れた名前は、隣に座る江藤先生本人のものだった。平然と話す先生の様子に乗せられてか、辺りはいつのまにか笑いで包まれている。
「お前、女の子に真っ先に紹介させるとか鬼か?まずは男からして空気を和らげとくもんだろ。…ってことで、次は山野辺な」
「…わっ、ちょっ!」
ヤマノベくんは、先生の手の内から飛び出したマイクを、両手でしっかりと受け止めると、一瞬で眉を顰めて、目の前のメモをじっと見つめた。
「…えーっと、山野辺吾郎です。得意なことは早口言葉です!生麦生米生卵…」
ヤマノベくんは早口言葉で噛んでしまわないように、必死に舌を回して頑張っている。先生は、そんな彼の姿を一瞥したあと、こそりとわたしに耳打ちをしてくれた。
「自己紹介なんて、結局なんでもいいんだよ。自分の知ってもらいたいことを、言葉にするだけでいいんだ、簡単だろ?」
わたしの、知ってもらいたいこと。先生は家族のことを話していて、ヤマノベくんは得意な早口言葉を披露していた。わたしは、なにをみんなに伝えられるだろうか。
ちょうどヤマノベくんの早口言葉が途切れて、わたしへと順番が回ってくる。息を大きく吸うと、幾分か気分は落ち着いた。
「初めまして…!狐井小梅です。わたしは昔から少女漫画を見ることが好きで、最近はまっているのは、たゆたう指先っていう、絶対的王子さまと幼馴染との恋の間で揺れる漫画です!ほんとうは両想いなのにお互いを思いやるあまりくっつけないところが、じれったくて萌えます…」
わたしの唯一話せることといえば、大好きな漫画を紹介することぐらいだった。椅子の下に隠してあった鞄の中から、たゆたう指先と書かれた少女漫画を取りだし、宙に掲げる。