キリンくんはヒーローじゃない
「…狐井さん」
いよいよバスの外に出て行く列が切れて、座席に座っているのはわたしと江藤先生のみとなった時、背後で声をかけられた。
「…わっ、ビックリした!」
キリンくんだった。ヤマノベくんが座っていたであろう真後ろの座席を陣取り、わたしの背凭れに顎を乗っけている。
「狐井さん、わりと馴染んできたね」
わたしの手元にあるキャンディーを指差し、緩やかに頬に靨を作る。
「俺も思ってたんだけど、やっぱり自己紹介の時の漫画の話が効いたよな」
「インパクトのある話題だったから、余計に食いつくしね」
江藤先生とキリンくんが、顔を見合わせて頷き合う。わたしのことを考えてくれている2人だからこそ、ちょっとした変化にもすぐ気づいてくれるのが嬉しい。
「…一歩、外にでてみたら違う景色で驚いた。わたし、知らない間に壁を作ってたみたい。勇気をだして、ちょっとだけでも穴を空けられてよかった」
ほんとうによかった。わたしには無理だって諦めていた頃の自分じゃ考えられないくらいに、周りの景色が輝いて見える。勝手に狭めていた世界がどれだけ勿体ないことだったのか、今なら理解できる。
「…いい顔してる」
前髪で相変わらず表情は伺えないけれど、ほんのり赤く染まった頬、綺麗な弧を描く唇によって、優しい微笑みを零していることが、確かにわかる。
いい顔って、言っているあなたも相当いい顔をしているってこと、気づいてる?
「狐井さん」
「…ん?」
「林間学校、楽しみだね」
そうだねって返そうとしたのに、どうしても喉がつっかえて言葉がでてこない。なにが起こっているのか、自分でもわからないままキリンくんの顔を見つめると、ひどく胸が痛んだ。初めての出来事に混乱して、座席の下に潜り込む。
江藤先生とキリンくんが必死に呼びかけてくれているけれど、応えられそうになく、休憩時間が終わるまで両耳を塞いで蹲っていた。