キリンくんはヒーローじゃない
「あー、綿貫毬子ね。なかなか勇気あんね」
後ろからかけられた声に、驚いて肩があがる。
「月、先輩…」
「靴履いて外にでるだけなのに、待てどもこないから様子見にきちゃった」
先輩の表情は変わらず穏やかなのに、どこか冷たくて、ローファーを持っていた手から力が抜ける。
「早く帰ろうって約束したでしょ。他人の下駄箱を弄ってないで、雨降る前に外でよう」
わたしの手を下駄箱から外させて、やんわりと腕を引く。
「彼のことは別に気にしなくていいんじゃない?友達だからってそこまで手をかけてあげる必要はないよ」
わたしの足にローファーを履かせて、無理に歩かせようとする。ツキ先輩に憧れていた気持ちが嘘みたいに、真っさらになっていく。目の前の、このひとは一体誰なの。
「わたし、は…」
「彼のところに行きたいの?」
確信めいたことをきっぱりと言う。冷たくなった掌がわたしの腕を掴み、距離を一気に縮める。
「そんなのだめだよ、絶対に行かせない。だって、俺は小梅ちゃんを守るって元気にするって、言ったんだ」
喉の奥がヒュっと、鳴る。血走った彼の目が、わたしの顔をしばらく見つめて、途端に我に返る。
「…ああ、ごめん。こんなことするつもりじゃなかったんだ、怖がらせてごめん」
大きく息を二、三度吸って、精神を落ち着かせる。脂汗をハンカチで拭き取った彼は、勢いよく頭を下げて謝罪を述べる。
「小梅ちゃんのことを誰かに取られたくなくて、執拗に迫ってしまっただけなんだ」
わたしは今すぐこの場を離れたい一心で、ローファーを履いたまま、階段を駆け上る。
追いかけてくるんじゃないかって、どこかで不安になって後ろを振り返ってみたけど、誰もついてきていなかった。