海の底にある夢【完】
新しい侍女が一人増えたところで何の問題もない。
と、考えていたキリアスは過去の自分をぶん殴りたいと思った。
「……なんだ、それは」
「ネズミの死体です」
「見ればわかる。俺が聞きたいのはそこじゃない」
黒髪に黒縁眼鏡、肌の露出を極力避けたエアの姿は地味以外の何物でもない。
しかし珍しく朝方廊下でばったりと会ってみると、その手にはネズミの死体が大量に乗っていた。
「私が何かと至らないせいかと思います」
「何がどうしてそんな状況になっているんだ、と俺は聞きたい」
エアが城に来てからまだ一週間しか経っていなかった。
炊事、掃除、洗濯もでき、マナーも大丈夫だろうと判断した彼は城で雇うことにした。
住民票を見ると、父親はすでに他界し、母親の死はまだ報告されていなかった。
仕事の合間にキリアスが諸々の手続きを済ませ、複雑な事情を抱える彼女を城に迎え入れることに成功したことで、彼は満足していた。
だが現実はそう甘くない、と目の前のネズミの死体の山を見ながら実感した。
「今朝起きましたら部屋のドアの下から入れたのでしょう、床に散乱していました。これから埋めに行くところです」
「なぜ素手なんだ」
「まだ温かいので」
それは理由にならない、と彼は思った。
どんな病気を持っているのかわからないネズミの死体を素手で…いや、生きていてもごめんだが、触りたくもない。
しかしそうか、彼女は不死身だった。
こんなことでは臆さない性格なのだろう。
「おまえ、普段もそんな態度なのか」
「そんな態度、とはどのような態度でしょうか」
「そういう態度だ。素っ気ないにも程がある。コミュニケーションを取る気はあるのか」
「ありません。必要ないと思います」
「はあ…」
能力はあるが態度に問題があり、妬みやいじめの対象になってしまうとは考えていなかった。
せめて世間話でもできればいいものを、女特有のお喋りができない性格となると仲間外れになるのは当然だ。
単純に周囲との話が合わないということもあるだろうが、彼女はずっと母親と暮らしていたと言っていた。
それが原因で他人との付き合い方がわからないのかもしれない。
「ですが、キリアス様とのお話が一番長い気がします」
「時間がか」
「はい」
「……これはお話ではない。業務連絡だ」
「そうなのですか?」
首を傾げる彼女と、その手に乗るネズミの死体。
まるでこちらに差し出されているかのような錯覚を覚え彼はこめかみを指で押さえた。
「……俺もまだ時間がある。埋めるのを手伝おう」
「いえ、手を煩わせるわけには…」
「さっさと終わらせるぞ」
替えの手袋が必要だな、と白手袋が土によって汚れていく様を想像しながら振り返ることなくキリアスは彼女の前を歩いた。