海の底にある夢【完】
少女が一人、海の中に沈んでいく。
雨によって濁った海は黒いインクが混じったようだった。
(これで私も…お母さんのところに…)
昨夜、彼女の母親が亡くなった。
父親は病気ですでに亡くなっており、母親と少女は二人で仲睦まじく暮らしていた。
その母親は今も降る豪雨によって増水した川の濁流に飲み込まれた。
職場から帰る途中に起こった悲劇だった。
(苦しい…!)
唯一の生き甲斐だった母親を亡くした喪失感は次の日の夜に、急に襲ってきた。
夕飯を作って待っていたのにまだ帰って来ない。
おかしい、と思いながら時計を何度も見る。
そうやってずっと回り続ける長い針を眺めていると、すぐ近くに雷が落ちた。
木に直撃したのか、バキバキと何かが割ける音がし、ズドンと地響きがした。
その音にハッとし、我に返った。
(お母さん…!)
川に流された。
それなら、海で待っているのかもしれない。
娘である自分が追ってくるのを。
そう思ったら勝手に足が動き家の外に飛び出した。
全身を一瞬で暗く染め上げる激しい雨。
荒れ狂う風で目もまともに開けられない。
そうしてやっとたどり着いた海の向こうに、ぽっかりとそこにだけ光が差し込んでいた。
天使の梯子だ。
(お母さんが行っちゃう…!)
暗黒の雲間から差し込む光の下に、きっと母親がいるに違いない。
彼女は迷わず海に飛び込み泳いだ。
しかし、すでに濡れていた服はさらに海水を吸い込み、海もまた彼女をインクの中に引きずり落としていく。
数分ともたないうちに少女は波に揉まれ海の中に沈んでしまった。
(苦しい…)
母親もきっと、苦しかっただろう。
川に流され、岩にぶつかり、波に襲われ…
涙が出た。
彼女の涙は海と混じることなく、天に向かってじわりじわりと滲み出て行く。
(どうして)
どうして自分を残して逝ってしまったのか。
太陽のように明るい人だったのに。
これからもずっと二人で生きていくはずだったのに。
(どうして、どうして、どうして)
誰か教えてほしかった。
どうして私を連れていってくれなかったのかを。