海の底にある夢【完】
「わ…」
「呆けている場合じゃないぞ。中まで歩け」
と、ディレストの腕が腰に回りエアはぎゅっと肩を縮こませた。
それを見かねた弟が近寄って声をかける。
「それは恋人設定のときにやってください。今はただの付き人ですからやりすぎです」
「……そうだな」
と、少し残念そうにした彼は言われた通りに腕を離し手を掴むだけにした。
先ほどグッと近くなった彼の体を思い出し、彼女は僅かに赤面する。
その様子を見てキリアスが目を丸くさせた。
(あんな表情ができるのか…)
やはりあいつには敵わないか、と肩をすくめ、キリアスは馬車を邪魔にならないところに駐車させた。
そうして一行は時計塔の建物内で管理人と合流した。
初老で眼鏡をかけた背筋のよい男性だった。
「ようこそお待ちいたしておりました。ディレスト殿下のお噂は窺っております」
「噂? 良い噂だろうな?」
「ええ。そうですとも」
と、仕事モードに突入したディレストは管理人と並んで先を歩き始めた。
二人ともにこやかに談笑し、時折管理人の笑い声が大きく聞こえる。
「僕も近くに行かないと。君はキリアスとゆっくり来なよ」
「はい」
そうして二人残されたエアとキリアス。
半歩後ろにいるキリアスから気まずそうな雰囲気が漂っていたため、エアは遅れないよう螺旋階段を上ろうとすると、ガクッと踏み外してしまった。
慣れないヒールで無理をするものじゃないな、と後悔したとき、肩にキリアスの固いお腹が当たりガシッと掴まれ転落せずに済んだ。
「…おまえは死ぬ気か」
「いえ、私死にませんよ…?」
「俺の心臓に悪い。頼むから避けないでくれ」
頭上から真剣な赤い眼差しを向けられ、コクリと頷いてみせた。
すると、彼はほっとした表情になり目元を緩めて柔和な笑みを浮かべた。
その表情を見てエアはドキッと心臓が跳ねた感覚がした。
「では参りましょう、お嬢様」
急に芝居がかった口調でエアの体勢を戻すと、キリアスはディレストと同じように手を差し伸べてくる。
その意味を理解した彼女はその手をぎゅっと握った。
「あの、私、死にませんけど痛みは感じるので、転びそうになったら助けてくださいね」
「ああ。任せろ」
「お願いします」
と、手を握りながら必死の形相で言ってくるものだから、彼は不覚にもおかしそうにクスクスと笑い出してしまった。
「もし転んだらお姫様抱っこしてやるよ」
「恥ずかしいので遠慮します」
すっぱりと断るところもまた可愛らしい。
彼はその後しばらく、満足そうに口角を上げていた。
(ディールの思う壺だな)
例えそうだとしても、彼は満足していたのだ。