海の底にある夢【完】
(滑るな転ぶなはしゃぐな…って、子供扱いしすぎ)
そう何度も注意してきたディレストと別れ宿の温泉に向かうと誰もいなかった。
脱衣所で服を脱ぎ、入浴用の服を着て温泉がある外に出た。
外気は少し冷たく、周囲をぐるりと塀で囲まれているからか場所によっては風が強い場所があった。
まずは体と髪を洗うとお湯で流し、三つあるうちの一番手前の温泉に浸かってみた。
乳白色の温泉の効能は美容だった。
(効果は…お肌ツルツル?)
日焼けのせいもあってか首元がヒリヒリとしたが、中途半端に向けた皮がこれでよくなるかもしれないと思うと嬉しかった。
次の温泉は緑色をしていた。
こちらは切り傷に効果があるらしい。
これも日焼けに効きそうだ。
最後の温泉は透明で、筋肉痛に効くらしい。
馬車に長時間乗っていたためちょうど欲しかった効能だった。
(…のぼせないうちに出ないと!)
そのうち目を瞑っていた彼女はそこでハッとし、ザバッと勢いよく温泉から出た。
再び体をお湯で流して脱衣所に戻ると、親子が一組着替えているところだった。
「お母さーん! 早く入ろうよー! 花火始まっちゃうー!」
「わかったから静かにしなさいっ」
「あ、綺麗なお姉ちゃんがいる!」
「あ、えと…こんばんは」
「こんばんはあ!」
「こんばんは…あの、騒がしくてすみません」
「ああ、いえいえ。もう出ますから」
と、そそくさと脱衣所を出たエアは大きく脈打つ心臓のあたりをぎゅっと握った。
(お母さん、か…)
あんなに大好きだったはずの母親の顔を、実はエアはあまり覚えていなかった。
以前の話をしたがらないのもそのせいで、話さないというよりは、話せなかった。
(もうどんな家に住んでいたかさえ覚えてない…)
記憶を失っていく恐怖を抱えていた彼女だったが、ディレストや他の皆のおかげでその想いを紛らわすことができていた。
しかし今、城の外で慣れない環境にいるせいか漠然とした不安を感じるようになっている。
口数が多いのもそのせいで、ホームシックのような状態にあることを知られたら心配をかけてしまうと思い、空元気を出しているような感じになってしまっていたのだ。
(戻ろう…)
足早に廊下を突っ切り部屋に戻ろうとすると、ちょうどディレストとばったりと出くわした。
新しい軽装に着替えた彼はエアを見て首を傾げる。
「どうした? 何を急いでいるんだ?」
「あ…えっと、今日は花火があるそうなんです」
「へえ、そうなのか。じゃ、早く戻らないとな」
(あ…なんだか安心してる)
さっきまで嫌な音を出していた心臓が嘘のように静かになった。
彼の後ろを歩きながらその背中を見つめる。