海の底にある夢【完】
「生きているのが不思議ですね。まるで仮死状態です」
「つまり?」
「死んではいませんが、生きているとは言えない状態です。体温は低く、脈も弱い。息もほとんどしていない…」
「どれ」
「あっ!」
横たわる女の上に覆い被さるようにソファーに手をついたディレストは、何の躊躇も無しにその閉じられた唇を塞ぐと人工呼吸を始めた。
息を吹き込んでは胸を押している。
「私がやりますから!」
「おまえと間接キスはごめんだ」
「そんなことを言っている場合ではありません!」
(どんな病原菌を持っているかわからないのに、この男は…!)
キリアスは大きなため息をつきこめかみに指をあてた。
しかし人工呼吸のやり方を教えたのは紛れもなく自分で、完璧な所作で行う彼を叱る気にはなれなかった。
ディレストがそうして何度も心臓マッサージを繰り返していると、女の腕がピクリと動き突然弱々しく暴れ始めた。
ゴホゴホと最初に海水を吐き出した後、うわ言のように何かを言っている。
「どう…て……あ、さ…」
ディレストは瞬時にその場から退いたため伸び切った爪で引っかかれることはなかった。
彼女はそれだけで力尽きたのか動きを止め、ぱたりと気を失った。
長い髪に覆われた顔からは黒い涙が一筋、こぼれた。
「なんと言ったんでしょうか?」
キリアスは驚きながらも隣にいるディレストに聞いた。
「どうしてお母さん、だ」
「え?」
「呼吸も落ち着いたな。連れ帰ったら点滴を打つぞ」
「連れ帰るんですか?!」
「置いて行くのか?」
しれっとそう聞かれ、側近はうっと言葉に詰まった。
野郎がたくさんいる港町。
弱りきった若い娘。
治安が悪いわけではないが、がらが悪い者も少なからずいる。
しかもこの目立つ見た目。
悪徳なことに使われかねない。
それに今後、ディレストの体調に異変が生じた場合の責任は誰が追うのか。
船長か?
自分か?
それとも…
「……………仕方ありませんね」
自分の保身のためではない、とキリアスは内心首を振った。
「ただし、面倒はあなたが見てください」
「こいつはペットじゃないぞ」
「好奇心までに留めてくださいよ」
「ふん。俺が好意を抱くとでも?」
「冗談でもやめてください」
一国を背負うことになる男がこんな得体の知れない娘に現を抜かすなど、言語道断。
彼女はあくまで道具だ。
彼の好奇心を向けさせ、城に繋ぎとめるために利用する。
とりあえずは連れ帰るが、勝手に死んだときはそれまでだ。
キリアスは眼鏡のブリッジを押し上げると、冷ややかな目つきでソファーの上に横たわる奇妙な女を見下ろした。