対立相手が婚約者。それって何かの冗談ですか?
「いいから、掴まってください。誰も僕らのことなんて見てませんから。転んだ方が注目の的ですよ」

その言葉に、恵巳が動いた。拡樹の浴衣の袖を小さく掴み、一歩傍に寄った。

「では、行きましょうか」

そう言って、先ほどまでよりもゆっくりとした歩調で歩き出す。気遣いが伝わってくる。満天の星空の下、石畳と草履がこすれる音を響かせた。

「有名な歌人も、温泉というものを利用していたようですね。といっても、今のように観光地としてというよりも、治療という面が強かったようですが。この前読んだ本に書いてありました。お湯に浸かって心と体を癒していたのでしょうね」

和歌の話題に、自然と顔がほころぶ恵巳。

「万葉集にも数多く温泉の記載があって、日本人は昔からお湯に浸かることを好んでいたことがわかります。
もしかしたら、湯けむりを浴びながら詠んだ歌もあるのかもしれませんね」

そんな話をしながら、良い雰囲気に心和ませる。近くを流れる川の水のせせらぎをいつまでも眺めていられるような気がした。

あまりにリラックスしていた恵巳は、とても重大なことを忘れていることに気づかずに、うっとりと川の流れに耳をすませていた。
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