一筆恋々

前略
貴女には申し訳ないけれど、私はほっとしています。
店の跡を継ぐ事も、結婚する事も、最初から本意では無かったのです。
(ようや)く落ち着いて勉強に取り組めるようになったので、欧州の情勢次第では何年か留学する事も考えてみたいのです。
ですから私に対する気兼ねは必要ありません。

今回の渡欧の事でも分かるように、兄は本当に生地や着物、服が好きで、当店の事に止まらず、良い物を世に広めて行きたいという気概を持っています。
また、ただの願望ではなく、それを成し遂げる行動力も才覚もある人なのです。
人脈も広い。
私が漫然と店を預かるより、兄が継いだ方が如何に有益かなど、説明する迄も無いでしょう。
そんな兄に、どうか力を貸してやって欲しい。

お姉さんの結婚を見て、貴女は恋に憧れていたでしょう。
そんな時期に折良く私が現れたから、錯覚してしまったのだと思う。
分かっていて、私はそれを利用しようとした。

始めから兄が相手だったなら、きっと貴女は兄に恋をした。
今は混乱しているかもしれないけれど、落ち着けばきっとそれが分かる筈です。

当家の事情で貴女を振り回して、本当に申し訳ありません。
兄は良く働き、他者を思い遣り、家族を大切に出来る人です。

どうか幸せになってください。
草々


大正九年十二月二十日
久里原静寂
春日井手鞠殿


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