私が恋を知る頃に
『おつかれ。とりあえず穂海ちゃん寝ました。やっぱり怖いみたいだから、しばらく付き添うことになったので、先仮眠とってて。』

というメールを陽向に送ってから、こうなることを想定して持ってきていた論文を取り出す。

今日の分の仕事は終わらせたから、あとの時間は急患が来ない限り、わりと暇だ。

かといって、医学は日々進歩しどんどん知識が更新されていくから、ぼーっとしている訳にも行かず、空いた時間は論文か医学書を読むことにしていた。

しばらく読み進め、集中力の低下とともに目の疲労がやってきた頃に一度論文を閉じ、音を立てないようそっと伸びをした。

歳のせいか、最近は暗い中で読み物をするとすぐ疲れてしまうようになった。

気分転換も兼ねて、そっと携帯電話の写真フォルダを開く。

子どもたちと朱鳥の写真に癒されつつ、次の休みは何をしようか、などと物思いしずむ。

今年は、行くと約束して結局呼び出しで行けなくなった約束が沢山あるから子どもたちは拗ねているかもしれないな。

柚月はクールだからあまり何も言ってこないけど、葉月なんかはあからさまに不満を表現してくる。

先月の休みも、行く用意をしている最中に呼び出されてしまったから葉月は酷く怒ってギャン泣きからの、3日ほどろくに口を聞いてくれなかった。

申し訳なくは思うが、でも患者さんの命には変えられない。

こっちも泣く泣くではあるけど、でも一番悲しんだのはきっと当日まで楽しみにしてくれていた葉月だから、次こそは…!!と思うものの、今年は連敗続きだ。

とりあえず、前に約束していた水族館からだな。

水族館は家の定番お出かけスポットとなっている。

朱鳥の体があまり丈夫ではないこともあって、遊園地での絶叫アトラクションや長く陽の当たるところで運動をするようなものは向いていない。

その結果、いつも涼しくて清潔な水族館になってしまう。

まあでも、水族館は子どもたちも喜んでくれるし、朱鳥もいつも嬉しそうにしてくれるから結局同じところばかり行っている。

たまには遠くにも行きたいけれど、出先で急な呼び出しがあったら…と思うと、なかなか旅行にも行けないんだよな。



なんて思っていると、穂海ちゃんが身動ぎをした。

見ると、眉間にシワがよっている。

呼吸もいつもより乱れ気味だし、また悪夢見ちゃったかな……

穂海ちゃんの脇に体温計を挟みつつ、肩を軽く叩いて起こす。

「穂海ちゃん、穂海ちゃん。大丈夫?」

ハッ!!と怯えた顔で目を覚ました穂海ちゃんは、自分の状況に気が付くと、安堵のため息と共に涙を流した。

体温は37.8

夕方より上がってきている。

「穂海ちゃん、また怖い夢見ちゃった?」

そう聞くと、穂海ちゃんはそっと首を縦に振った。

「そっか、辛い思いさせちゃってごめんね。熱も上がってきちゃってるし、苦しかったね。」

声をかけながら、ゆっくり背中を撫でると、穂海ちゃんはポロポロ涙を流しながら頷いた。

「………こ、わかった…」

「うん。」

「…男の人がね…………、いっぱい殴ってくるの……、……痛くて、怖くて、わ、私…………」

「よしよし、よく頑張った。大丈夫だからね、もう怖い人はいないからね。」

コクン…

穂海ちゃんの心に言い聞かせるようにゆっくり、何度も繰り返す。

「大丈夫。大丈夫。穂海ちゃんを傷つける人は、もう居ないから。大丈夫だよ。みんな、穂海ちゃんの味方だからね。」

コクン、コクン

穂海ちゃんも、きっとわかり始めてる。

でも、まだ穂海ちゃんの心は安心しきっていなくて、それが悪夢に繋がってるのかな。

悪夢なんて無くなればいいのにな。

1人でも多くの子がトラウマで悩むことの無い生活を送れますように。
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