私が恋を知る頃に
「喜んでもらえてよかった。……でもね、その前に…やるべきことがある。」

その一言で、一気にスっと体温が下がった気がした。

何、はしゃいでるんだ、俺…、そうだよ、まだ肝心な部分が残ってるじゃないか……

「この前の自傷行為について。僕は、これを蔑ろにはしたくない。この話は、聞く方も聞かれる方もかなり精神的に辛い思いをすると思う。……けど、この話を直接本人から聞かずして、鬱の原因を探ることはできないからさ。」

「…はい。」

いつも、無意識的にも、意図的にも…避けようとしてしまっていたこの話題。

だって、話したらまたあの日の…真っ赤に染った床の、生ぬるい血の手触りの、冷たくなった穂海の手の、目の前で消えかける命の……怖さを思い出してしまいそうで…。

「…辛いよね。わかる。自傷について思い出すのは誰だって怖いよ。僕は、まあ多少診療域的に少し慣れてるとこもあるけどさ…、瀬川くんは見るの…初めてだったでしょ?」

俺は情けなく首を縦に振った。

「…うん。初めてなら尚更、だね。怖かったよね。思い出したくないよね。わかる。」

そう言って園田先生は、ゆっくりと大きく背中を撫でてくれる。

「大丈夫だよ。怖いのはみんな同じだから。僕も最初はそうだった。…医者でも、怖いことはあるさ。ましてや、自傷なんて誰が見ても怖いと思うよ。だから、怖がる自分を責めないで。…ただ、ちゃんと向き合って瀬川くんも、穂海ちゃんもお互い良い方向に心を持っていこう。……あの時、穂海ちゃんを守ってくれてありがとう。瀬川くんがあの時穂海ちゃんを救ってくれたから、今があるんだよ。」

「っ…………」

"怖い"と思ってる事を誰にも言えずにいた、恐怖を抱いているのは自分の至らなさのせいだと思っていたから。

"怖い"と思う心を情けないと思っていた。

それが無意識に自分の首をじわじわ締めていたことに、今の今まで自分ですら気づかなかった。

…でも、園田先生は………

「…ありがとうございます。先生のおかげで、少し向き合う勇気が出てきました。……ほんと、何から何まですいません。」

「ううん。いいのいいの。自傷はさ、本人にも周りにも心に大きく傷を残すものなの。でも、周りの人は、自傷した本人ばかりに気がいって、自分の心が傷ついているのに案外気付かなかったりするもんなんだ。」

いつの間にか、先生の背中を撫でる手は、俺を鼓舞するように優しく背中を叩いてくれていた。

「…少し気が楽になってくれたならよかった。よし、じゃあもうひと頑張りいこうか。次は穂海ちゃんの心を楽にしてあげる番だよ。」
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