銀のナイフと薬を手にして
「うん。残念だけど、会議が入ってる」
と彼は答えた。わたしは無言でスマートホンを取り出す。みき子たちからのLINEが届いている。
『四ッ谷の五ツ星にいるから、仕事早めに終わったら来ない?』
五ツ星というのは正式な名前じゃない。ましてや本当にガイドブックで星を取ったわけでもなく、しいていえば燻製のチーズとか厚切りベーコン入りのポテトサラダなんかが美味しい、ごく普通のダイニングバーだ。
二人のグラスもお皿も空になりかけていた。出るにはいい頃合いだ。
「中岡さん。女友達が四ッ谷で飲んでて、今からちょっと来ないかって言ってるんだけど」
と二つの意味を込めて告げたら、彼はうっすら残っていたウーロン茶をさっと飲み干して
「じゃあ、出ようか。あんまり飲みすぎないようにな」
と言って、伝票を掴んだ。自分がどうしたいのか分からないまま席を立つ。髪も黒いブラウスからもかすかに煙の匂いがした。嫌いじゃないけど、今はわずらわしかった。
まだ雨が降っていて、駅の改札まで来ると、中岡さんが、はい、と紀伊國屋書店のレジ袋を差し出した。
「今日の映画の原作本。プレゼント」
「え、あ、ありがとう」
と驚いてお礼を言う。じゃ、と彼は片手を上げて、山手線への階段を上がっていった。

四ッ谷駅までは一駅しかなくて、席に座ってページを開いただけで到着してしまった。冒頭からヒロインと義父がぞくぞくするような不穏さを漂わせていたので、続きが気になりながら電車を降りる。
四ッ谷の広い駅前から光を映した川を見つつ、店へと向かった。

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