偽婚
初めて訪れたそこは、バーだった。
神藤さんはカウンターの一番奥のスツールに腰かけていて、他に客は誰もいない。
老齢のバーテンも、私を見やって「いらっしゃい」と言うだけで、読んでいる文庫本を閉じようとはしなかった。
この店はこれで大丈夫なのだろうかと余計な心配が頭をもたげたが、神藤さんに招かれて、私は隣のスツールに腰をつけた。
「ごめんね、遅くなって」
私の言葉に小さく笑いながら、神藤さんは吸っていた煙草を消した。
普段は意志の強そうな目をしている神藤さんは、笑うと柔らかい顔になる。
普通に知り合っていたら、うっかり惚れていたかもしれないとまで思うほどの、破壊力。
「で? わざわざ場所を変えてまで私を誘うなんて、どういう理由?」
まさかホテルに連れ込まれるようなことはないと思うけど。
少しの警戒心を持って聞いた私に、神藤さんは「なかなか鋭いんだな」と返す。
「実はちょっと、お前に大事な話があって」
大事な話?
思わず眉をひそめてしまった私の目を真っ直ぐに見て、神藤さんは言った。
「俺と結婚してくれないか?」