偽婚
いくら逃げ出したくとも、逃げるわけにはいかない。
私は、とにかく目の前の会話だけでなく、まわりすべての会話を聞いた。
どんな些細な話でも、それが何かになることを、私はキャバ時代に学んでいたから。
「おめでとう、神藤くん」
「あ、えっと、ありがとうございます」
続けざまの挨拶に、一瞬、神藤さんの顔が曇ったのがわかった。
代わりに、私はほほ笑んで見せる。
「ありがとうございます、葉山さん」
神藤さんと、目前の男性が、一緒に驚いた顔をした。
「きみとは初対面のはずだが、僕のことを知っているのかい?」
「えぇ。もちろんです。雑誌の編集者さんですよね。葉山さんが特集されたお店はすぐに予約でいっぱいになるって有名ですもの。私も、一度でいいからお会いしたいと思っていたんです」
「そうかい。こりゃあ、嬉しいな」
男性の顔が緩むのがわかる。
私はほっと安堵した。
「素晴らしい奥さんだね、神藤くん」
「ありがとうございます。自慢の妻です」
頭を下げた神藤さんは、何とも言えない顔だった。