ドレスと一緒に私も売れました【優秀作品】
「いらっしゃいませ。」

私がスケッチブックから顔を上げると、ジャケットを腕に掛け、三揃えのベストとスラックス姿の男性が立っていた。

年の頃は私より少し上、多分30代前半くらい。

誰もが振り返るような整った顔立ちは、どこかで見覚えがある気がした。

おそらく185㎝前後あると思われる高身長を包んでいるのは、明らかに腕のいい職人がフルオーダーで仕立てたと思われるスーツ。

お金持ちなのかな。

こんな高級スーツ、私には買えない。

「ああ、ここは涼しいな。」

男性は額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、呟く。

天気予報によると、今日の外気温は35度を超えるらしい。


だから、冷え性の私が厚着をしてまで、店内は冷房を強めに掛けている。

試着や仮縫いで汗が付かないようにするための配慮だ。


「お客様は、当店は初めてで
いらっしゃいますか?」

私がそう尋ねると、男性はまじまじと私の顔を見つめた。

あれ? 私、変なこと言った?
私がこの店をやるようになってからは一度も見たことのないお客様だと思うんだけど。

男性は、ふっと笑って言った。

「いえ、昔、何度かお邪魔したことが
あります。」

ああ、父がやってた頃のお得意様なんだ。
でも、そんな若い頃からうちのスーツを着てたの?
もしかしてどこかの御曹司?

私は、そんな事を思ってるなんて表情には出さずに答える。

「それはいつもありがとうございます。
3年前に店主が変わりまして、今は私が
承っております。
どのような物をご希望ですか?」

私は生地を並べてある棚へ足を向ける。

「そこの赤いドレスを。」

背中越しにそう言われて、私は驚いて足を止めた。

その言葉を噛みしめるように、ゆっくりと振り返り、男性を見る。

「ドレス…ですか?」

「はい。
それと、この後のあなたの時間も一緒に。」

「えっと、それは… ?」

どういう事?

私が戸惑っていると、男性は柔らかな笑みを浮かべて答えた。

「この後、このドレスを着て、私に同行して
いただきたいのですが、何かご予定は
ありますか?」

「いえ。」

予定なんて、そんなものが入るくらいなら、廃業を考えたりしない。

「じゃあ、ドレス代と合わせてこれで。」

ドレスの値段は19,800円と安めに設定してある。

今はネットで海外からの安いドレスが出回っているせいで、なかなか高いものは売れない。

けれど、今、目の前に置かれた金額はお札が2枚なんてものじゃない。

おそらく10枚くらいはあると思われる。
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