愛しの彼はマダムキラー★11/3 全編公開しました★
第十一章
残すところあと一週間とちょっとでバイトが終わる。

月曜日。
――今週で、彼ともお別れだ。
そう思うと居ても立っても居られない気分になり、気がつけばいつもより十分以上早く出勤していた。

社長室はシンと静まり返っていて、星佑はまだ席についていなかった。
始業時間より三十分も早い出勤に我ながら苦笑する。

ここから見る景色も見納めね。なんてセンチメンタルな気分にひたっていると、カチャと扉が開く音がした。

「あ、おはようございます」
「早いね」

「なんか、早く目が覚めちゃって……アハハ」
クスっと笑った星佑は、美海の隣に来て顎に指先をかける。

「おはよう」と囁きながら重ねた唇は、触れるか触れないかの微妙な感触で、名残惜しさに泣きそうになる。

――私、あと一週間で、別れられるのだろうか?
ちゃんと忘れることができるの?

もうすぐお別れだというのに、星佑は美海のバイトが終わってから先の話はしてこない。
それはそうだろうと思うながら、左手の薬指の指輪を触る。
彼にとって自分は遊び相手の人妻なのだ。
バイトが終ればさようなら。
今の甘い関係もぷっつりと終わる。

そうしたら――。
長い休暇は終わり。
今度こそ正社員で働こう。そして生活を立て直そうと心に誓い、美海は仕事に集中することにした

十時過ぎ。シキコが現れた。
彼女は社長室の応接セットに腰をおろす。どうやらそのまま打ち合わせらしい。

ガラステーブルに書類を広げて、ふたりは仕事の話を始めた。
新しい事業形態がどうとか、パリではこうだとか、聞いたところで美海にはさっぱりわからない。声だけならまだしも視界に入ると気になって仕方がないので、椅子の角度を変え、彼らの姿が見えないようにした。

「うふふ」というシキコの笑い声が耳に入ると、思わずキーボードを叩く音が大きくなる。気がつけば延々とリターンキーを押していたことに気づき、ハッとして深呼吸をした。
――やれやれ。

そんな美海をチラリと見た星佑がクスっと笑っていたことに、美海は気づかない。

「失礼します」
コーヒーを持ってきた女性秘書が、コーヒーをガラステーブルに置く音がカチャッと響く。

「ありがとう」と答えるのは星佑だけだ。
礼くらい言え!ムカつくと思ったのは美海だけではないらしい。
女性秘書はなにかを訴えるように美海のほうを向いて、ベーっと小さく舌を出して社長室から出て行った。

ちらりと振り返って見ると、いつの間にやらシキコは寄り添うように星佑の脇にいて、テーブルの書類を覗き込んでいる。
――まったく!くっつきすぎ! 胸見せてんじゃねぇよ!怒

「あら、もうこんな時間ね」
「ああ本当だ。じゃあ行きますか。オデッセイのフレンチでどうです?」
「いいわね」

――オデッセイってホテルオデッセイのことね!
もちろん美海はしっかりと聞き耳を立てていた。

「戻りは三時くらいになると思う」
「はい。わかりました。いってらっしゃいませ」
ふたりを見送った美海はバッグを手に取った。

おにぎりは持ってきていない。
星佑がいつランチを誘ってくれてもいいようにという期待からだった。

――星佑のやつ、今日こそ尻尾を掴んでやるわ。

ごまんと飲食店があるというのに、わざわざホテルで食事をする理由はなに?
食事をして、そのまま部屋に行くためじゃないの? え? そういうことでしょう? だって、食事だけじゃ一時間もあれば十分よ!

途中、急いでカーディガンと帽子を買った。
多少ではあるが変装のためである。

帽子で顔を隠すようにして店の入り口から店内を覗くと、窓際の奥のほうに座っている星佑が見えた。

「いらっしゃいませ」
「あの、予約なしで一人なんですけれど、大丈夫ですか?」
「はい」
レストランには無事入れた。

席もいい感じに離れている。
ラッキーなことに座っている彼らの姿は見えないが、帰る時はわかるという絶妙にいい席だった。

実は、レストランの入り口で、帽子の隙間から覗いている美海に星佑は気づいていた。

食事はもちろん美味しかった。
高級フレンチに帽子とカーディガンという出費は痛かったが、まぁ仕方がない。これで証拠写真さえとれれば、リン姉さんに必要経費だと請求してやろう。
そんなことを思いながら、
食事が終わってレストランを出たふたりのあとをつけた。

でも、同じエレベーターに乗るわけにはいかない。
――ああ、私ったらバカバカ。これ以上どうやって付けたらいいの?

茫然と落ちていくエレベーターの階数表示を見つめた。
どの階で止まったとしても、途中で人が乗ってきたらもうどこで降りたかなんてわからない。

一体なにをしているだか……。
ガックリと肩をおろしたまま次に到着したエレベーターに乗ると、1階へと降りることにした。

後からやけにファッショナブルな二人連れの女性客が乗ってきて、3階のボタンを押す。
落ちてゆくエレベーターの中で、二人連れが話し始めた。
「相変わらずかっこいいわね。イズミ社長」

――ん?
イズミ社長……。星佑も和泉社長だ。そしてかっこいい。

美海は、怪訝そうに耳を澄ます。

「あのまま会場に向かったのかしら。朝比奈シキコ、綺麗だったわね」
「ほんと。楽しみ」

――楽しみ?
見れば彼女たちはチラシを手にしている。
ファッションビジネス関係のシンポジウムのチラシのようで、朝比奈シキコの上半身がアップで印刷されている。何人かの顔写真の中に星佑もいる。
日付は今日、時間は今から三十分後だ。

――あっ。
シキコも星佑もこのシンポジウムに向かったのだ。
3階でエレベーターが止まると、ファッショナブルな彼女たちは箱の中から降りた。
ロビーに沢山見える人々は、これからシンポジウムに参加する人たちだろう。

閉まりゆくエレベーターの中で、ため息をつきながら美海の心は複雑に揺れる。
ホッとしたと同時に、虚しさが込み上げた。
――チラシに顔写真がのるって、なんかすごい。
すごい人なんだなぁ、二人とも。

人混みの奥から、そんな美海を見つけ、クスッと星佑が笑ったことを彼女はまたしても気づかない。

会社に戻った美海はあらためて自分に呆れる。
かたやシンポジウムの登壇者、かたや単純作業のバイト。

――あぁぁぁぁぁあ……。
世界が違い過ぎるーーー!


午後三時。
星佑が社長室に帰ってきた。

「あれ? 早かったですね」
「ん? 三時に帰るって言わなかったっけ」

「あ、ああ、そうでしたね」

美海のデスクの前に立ち止まった星佑が「口を開けてごらん」という。
ん? と首を傾げ、あーんと口を開けると
口にポトッとチョコレートの粒を入れた。

「うわっ、なにこれ、すっごく美味しい」
「はい。残りはあげるよ。もらい物だけどね」

「わーい。ありがとうございまーす」
クスクスと笑った星佑は、「かわいいな、美海は」と言って、美海の頭を撫でた。

――えっ。
ポンっと心臓が跳ねて、パッと心に花が咲く。

――だからもぅ、今週でさよならするんでしょう??? やめてくださいよぉ そういうのはぁ。
心の中でブツブツと文句を言うものの、にやける頬はうれしさを隠せなかった。

そしてその夜。

偽物の夫である晃良から電話があった。

「明日日本に帰るんだ。食事をしよう」
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