次期国王は独占欲を我慢できない
アリス、侍女になる
指定された日に、緊張の面持ちでヴァレールの元を訪れたアリスに告げられたのは、驚くべき異動先だった。
「ベアトリス王女殿下の侍女……ですか?」
「そうだ」
驚くべき異動先ではあったが、人間驚きすぎると、反応が乏しくなるようだ。
頭には確かに入っているのだが、どこかでその情報を拒否している。
なぜ、間違いで入ったはずの自分が、王族の侍女になどなれるのだろうか?
「ベアトリス王女殿下の……侍女、ですか」
語尾を下げただけの、まったく同じ言葉を繰り返す。だが、この事態が信じられないのはヴァレールも同じようで、眼鏡を押し上げると、至極真面目な表情で繰り返した。
「そうだ」
「――なぜ……ですか?」
「……わからん。だが、ベアトリス様たってのご希望なのだ。アリス・フォンタニエを侍女に、とな」
「……なぜ……でしょう」
「わからん。私にも、まったくわからん。ただ、王族の方々のご要望を私が覆すことなどできん。ならは、私がすることはひとつなのだ」
ヴァレールは仰々しい手つきで人差し指を一本立てると、アリスが床に置いていた荷物を指差す。それを目で追うと、続いてドアを指差した。
「とにかく、君はブラン盛月、一の日からベアトリス様の侍女だ。これは決定事項なのだ」
暗にさっさと行けと言われては、もう疑問をぶつけることもできない。
ブラン盛月は、新年の始まりだ。年末の挨拶や、新年の大きな舞踏会。王宮全体が慌ただしくなる時期だ。こんなタイミングで異動など、本来ならあり得ない。
一体どうしてこんなことになったのだろう。
あれから時間を見つけては、お守りの指輪を探しているけれど、見つかっていない。
指輪からチェーンを外してから、様々なことが起こっている気がする。最も、全てが悪いことではないけれど……。
あの日の夜――真剣な瞳、叩きつけるように告げられた想い、噛みつくようなキス――ふとした瞬間に、思い出してしまう。一度思い出してしまったら、緩む口元を抑えることは難しい。だが、ここは王宮、しかも王族の居住棟だ。こんなにだらしない顔でいてはいけない。なんとか顔に力を入れて、キリリと真面目な顔にならなくては。
「アリス・フォンタニエ?」
「はいっ」
ついつい、緩み切った顔で振り返ってしまった。
* * *
「あなたねえ、一体ここをどこだと思っているの?王族の方々の居住棟よ?そんなニマニマだらしない顔をして仕事ができる場所ではないのよ?」
「申し訳ありません」
声をかけたのは、アリスに指導をおこなう、侍女頭のエリーズ・フェーブルだった。
今、アリスはそのエリーズに連れられ、部屋に案内されたところだ。
アリスにあてがわれた部屋は、ベアトリスの部屋がある階の一番手前だった。回廊から曲がってすぐが、アリスの部屋ということになる。
「一番奥が、ベアトリス様のお部屋よ。そこから順にわたくし、それから順に侍女の部屋、新入りのあなたが一番手前よ」
「はい」
廊下の向かい側の、窓のない部屋は、お茶をすぐ用意出来るよう、簡単なキッチンや茶器が置かれた部屋に、交換用のリネン類が置かれた部屋だそうだ。
エリーズはアリスに場所をしっかり覚えておくようにと、付け足した。
部屋に入り中を見渡すと、こぢんまりしているものの、さすが王宮内ということもあり、装飾や家具は豪華だった。クローゼットや姿見、鏡台など、これまでの部屋にはなかった家具も揃っている。やはり、侍女になるような人たちは、貴族ということもあるのだろう。
屋敷の自分の部屋よりも豪華かもしれない。椅子は見事な刺繍の入った布張りだし、机の引き出しも凝った装飾がついている。ベッドも――そこで、アリスは見慣れないものがベッド横の壁についていることに、気がついた。ベルのように見えるが、用途が分からなかった。
「それは、ベアトリス様が用事がある時に鳴らすベルです。わたくし達は、深夜もお呼び出しの際はすぐに駆けつけなければなりません。仕事着もきちんと、近くに用意しておくようにね」
なんでも、ベアトリス王女殿下のベッドに、紐が下がっており、それを引くとこのベルが鳴るのだそうだ。そんなに頻繁に呼ばれるものなのだろうか?
アリスがベルを見ていると、部屋の外からカシャン、カシャン、と金属がぶつかるような音が聞こえ、驚いて身体がビクッと跳ね上がった。その様子に、エリーズが鼻を鳴らす。
「廊下の警備兵が交代したのよ。朝・昼・晩の三交代」
警備兵は廊下の突き当り――つまり、ベアトリスの部屋の前と、廊下の入り口に配置されていた。
この空間はベアトリスの私的な場所のため、客の出入りはない。その為、廊下の入り口にも配置されているということだった。その場所に一番近いため、必然的に交代の音はアリスの部屋にも聞こえる。新入りなのだから仕方がないことではあるが、慣れるまでは心臓に悪そうだ。
交代の際、互いの帯剣を鞘のまま二度打ち付けるのが儀式なのだそうだ。それならば、ベアトリス王女殿下の部屋の前も……も思いきや、それは音で驚かせてしまうことを考慮して、やらないと言う。
確かに、いくら守ってくれていると分かっていても、この音を部屋の外で鳴らされては落ち着けないだろう。
ラウル殿下が度々抜け出すというのも、そんな閉塞的な空気から逃れるためなのかもしれない。それに、こんな状態では恋人を呼ぶこともできないのだから、自ら出向くしかないわけだ。結果、噂になっているのだから、少し同情してしまう。
ただ、やはりアリスごときに遠慮をしてくれるはずもなく、廊下入口の警備はこの儀式はしっかりおこなわれる。
「元々、この儀式は周囲に対して『しっかり警備している』とアピールする意味があるの。ここでは、『この先には通さない』という意思表示よ。この音に慣れることは、王族の侍女になる上での通過儀礼のようなもの。早く慣れなさい」
「はい」
「それと……」
コホン、とわざとらしく咳き込むと、エリーズは正面からアリスを見据えた。
「侍女とは言っても、色々あるの。あなたはベアトリス様のおそばに付き従うというより、小間使いのようなものよ。その辺りをしっかり自覚して、調子に乗らないことね」
「……はい」
薄々感じてはいたが、やはり歓迎されていないようだ。
気持ちは分からないでもない。両親は元男爵とはいえ、今は隠居の身。アルマンが後見人となってくれているが、アリス自身、自分を貴族令嬢と意識して生きてきたわけではない。
王族の侍女ともなると、全員が名家出身の根っからのご令嬢だ。そのプライドもあるだろう。そんな彼女たちにしてみれば、アリスはどこぞの馬の骨のような感覚なのだろう。
それでも、やはりアリス自身を見てくれると、心のどこかで思っていたのだ。
これまでの騎士訓練所も、衣装部も、アリス自身をちゃんと見てくれた。叱られることもあったが、仕事がちゃんと出来ていれば褒めて、認めてくれたのだ。
なぜ、高貴な立場になればなるほど、視野が狭く、他を認めなくなるのだろう。
それでも、与えられた仕事だ。アリスは仕事を選べる立場ではないのだ。やるしか、なかった。
フンッという音が聞こえるかと思うくらい、ツンと顔を逸らして出て行ったエリーズだったが、アリスが部屋で荷物を解いていると、再びやって来た。
「アリス・フォンタニエ。ベアトリス様がお呼びよ」
「えっ。あ、はい」
本来ならば、今日アリスは休みで、それを利用して引っ越しをしているのだが、王族からの呼び出しともなると休みなどと言ってはいられない。
明らかに不機嫌で、苛立ちを隠そうとしないエリーズは、アリスを急き立てる。
「早くなさい!ベアトリス様をお待たせしないで」
そうは言っても、侍女としてお目にかかるのだから、お仕着せでなくてはならないだろう。
侍女のお仕着せは、今までのものとはくらべものにならない程、作りも質も良いものだ。
着替えている間も、エリーズの小言は続く。
「いい?ベアトリス様のことは、王女殿下ではなく、『ベアトリス様』とお呼びするのよ?これは身近な勤め人だけに許された特権よ。とても光栄なことなの」
「はい」
「それと――仕事をしていると、他の王族の方々と接する機会も多いわ。粗相のないようにするのよ。でも、周りに控えている侍女に臆することがあってはならないわ。ベアトリス様の品位が落ちるというものよ。いつも凛とし、侍女同士はあくまでも対等だということを忘れないで」
「はい」
数日かけて教わるはずの大切なことを、早口でまくしたてられるが、準備の手を止めることもできない。
覚えていられるだろうか――そう思っていたところで、エリーズの声が一段と低く、強く響いた。
「――特に、ラウル殿下の侍女たちには、負けてはダメよ」
「ええっ?」
「ラウル殿下の侍女は、わたくし達に勝ったつもりでいるのよ。いつもツンとすましていて、ラウル殿下のおそばにいることを許された、特権階級だと思っているの!ダメよ。負けてはダメ!バカにされるようなことはあってはならないわ」
「えぇ~……」
ここで言う勝ち負けとは、一体なんなのだろう。
ラウル殿下の侍女になりたかった者と、なれた者の心持の差ではないのか。
すると、エリーズがアリスの肩をぐっと掴んだ。
「特に、アリソン・フォンテーヌ――!あの子、フォンテーヌ侯爵が実力者だからと言って、コネで勤め人一年目でラウル殿下の侍女になったのよ。しかも、侍女の中にはアリソンのお世話をする者もいるの。新入りのくせに、もうすっかり侍女頭を気取っているわ」
「痛いです痛いです痛いです」
肩に指がググッと食い込む。すぐに離してくれたが、肩はまだジンジンする。
これまでに一体、アリソンとどんなことがあったというのだろう。
「とにかく、わたくしが言いたいことは分かったわね?あなたの行動ひとつで、ベアトリス様の評判を落とすの。わたくし達侍女がバカにされるのよ。それだけは気を付けてちょうだい」
鋭い視線がアリスの全身を細かくチェックする。そして一筋のほつれ髪をグッとピンで止めて帽子の中に押し込んだ。
アリスは痛さに顔を顰めるが、文句は言えない。今はとにかく、エリーズから合格をもらわなければ、ベアトリスの元に向かうこともできないのだ。
「――いいわ。行くわよ」
「はい」
背筋をシャンと伸ばして、深呼吸をしてからエリーズの後をついて行く。
突き当りの一際大きく豪華なドアの前に立つと、軽やかにノックした。
「ベアトリス様。アリスをお連れ致しました」
「ありがとう」
アリスはエリーズの後ろにいるため、まだベアトリスの姿は見えていない。
エリーズはアリスを連れてきたことを伝えると、当然のように部屋に入ろうとした。だが、部屋の中から意外な言葉が聞こえた。
「エリーズは出てくれるかしら」
「えっ……ですが……」
「いいの。アリスとふたりで話したいのだから」
ベアトリスの言葉に一番驚いたのはアリスだ。
面識がないのだが、ベアトリスはさもアリスを知っているかのように話している。だが、当然のことながら、アリスにはベアトリスとふたりで話をする理由もわからない。
ポカンとしているアリスを、エリーズが鋭く睨み付ける。
(ええっ、睨まれても、私だってワケが分からないんですけど!)
抗議したかったが、ベアトリスに聞こえてはならない。アリスはグッと言葉を飲み込んだ。
アリスと入れ違いで部屋を出たエリーズが、アリスの耳元で「おかしなことをするんじゃないわよ」と呟いた。
恐ろしい。
なぜかアリスが悪人に仕立て上げられている。
なんとか小さく首を振ると、そのまま背後でドアは閉められた。
光沢の美しいの布が張られた豪華な椅子に、ベアトリスは座っていた。
艶やかな栗色の髪は、綺麗にアップされ、ドレスと同じ真っ青なリボンでまとめられ、目鼻立ちのくっきりとした小顔が引き立っている。薄い青の瞳はほんのりと紫がかっており、その神秘的な眼差しで見つめられ、アリスはドキマギした。
「あなたがアリスね」
丸くふっくらとした唇から自分の名前がでてきて、ハッとアリスが我に返る。
見惚れていて、挨拶をしていないことに気が付いた。慌てて足を折り、腰を落とす。
「ご挨拶が遅れました。お初にお目にかかります。アリス・フォンタニエでございます」
「堅苦しい挨拶はいいわ。さ、こちらに来てちょうだい」
ラウルのようにハッと目を惹く美貌ではないが、やはりその姿には気品を感じる。
アリスは足を動かそうとして、思った以上に緊張していることに気づいた。それに気がついたのか、ベアトリスが噴き出した。
「ごめんなさい。突然のことで、驚いているわよね」
「ええと……」
「いいのよ。他には誰もいないのだから、少し肩の力を抜いてちょうだい」
そう言われても、はいそうですか、とすぐに緊張は取れない。どうしたものかと、アリスはそのままベアトリスの言葉を待った。
「この前のピンクのドレス。あのドレスに布薔薇を付ける提案をしたのは、あなたでしょう?」
「えっ……。なぜ、それを……」
「先日、離宮で夜会を開いたの。あのドレスを着て参加したのだけれど、衣装部の子が飾りを作ってくれたと話したら、それはあなただと、グレースが話していたの」
長姉の名前を聞いて、アリスは「あ」と口を開けた。
グレースは夫とふたりで、離宮の管理者をしているのだ。この前のお茶会で、同じような布薔薇でアレンジしたドレスを着て行ったこともあり、グレースの記憶に残っていたのだろう。
「あなたが呼ばれた理由、わかった?」
「はい。ですが、それで侍女に、というのは、まだわかりません」
「あなたはシンプルなドレスを、自分でアレンジして着ていると聞いたの。わたくし、お兄様と較べたら地味でしょう?」
どう答えたものかと一瞬止まるが、慌てて否定する。だが、ベアトリスが軽く手を振って制止した。
「いいのよ。自分でもわかっているの。それで、なんとか目立とうとドレスや装飾に凝っていたのだけれど――もう案がないのよ。デザイナ―から程よい露出が流行だと聞いたから、思い切って胸を大きく開けたら大失敗だったし……迷走しているの」
そういえば、ポリーヌもベアトリスがよくギリギリになって直しを言ってくると頭を抱えていた。あの大きく胸が開いたドレスを見た時は、かなりグラマラスな体型なのかと思っていたが、実際会ってみると、程よいサイズの胸がついている。これでは、あのドレスは角度によってはかなりきわどくなったに違いない。
「あの時は本当に助かったわ。それに、とても評判が良かったの。わたくしだけ、他の参加者とは違ったから、とても気分が良かったわ。だから、あなたにはわたくしの専属になってもらいたくて」
「勿体ないお言葉でございます。わたくしでよろしければ、お手伝いさせてくださいませ」
「ありがとう。――ついでに、もうひとつ、聞きたいことがあるの」
「なんでございましょう?」
「あなた、マルセルと仲が良いんですってね。わたくし、なんとか彼を落としたいの」
「――は?」
思わぬ発言に、まぬけな音がアリスの口から洩れた。
「ベアトリス王女殿下の侍女……ですか?」
「そうだ」
驚くべき異動先ではあったが、人間驚きすぎると、反応が乏しくなるようだ。
頭には確かに入っているのだが、どこかでその情報を拒否している。
なぜ、間違いで入ったはずの自分が、王族の侍女になどなれるのだろうか?
「ベアトリス王女殿下の……侍女、ですか」
語尾を下げただけの、まったく同じ言葉を繰り返す。だが、この事態が信じられないのはヴァレールも同じようで、眼鏡を押し上げると、至極真面目な表情で繰り返した。
「そうだ」
「――なぜ……ですか?」
「……わからん。だが、ベアトリス様たってのご希望なのだ。アリス・フォンタニエを侍女に、とな」
「……なぜ……でしょう」
「わからん。私にも、まったくわからん。ただ、王族の方々のご要望を私が覆すことなどできん。ならは、私がすることはひとつなのだ」
ヴァレールは仰々しい手つきで人差し指を一本立てると、アリスが床に置いていた荷物を指差す。それを目で追うと、続いてドアを指差した。
「とにかく、君はブラン盛月、一の日からベアトリス様の侍女だ。これは決定事項なのだ」
暗にさっさと行けと言われては、もう疑問をぶつけることもできない。
ブラン盛月は、新年の始まりだ。年末の挨拶や、新年の大きな舞踏会。王宮全体が慌ただしくなる時期だ。こんなタイミングで異動など、本来ならあり得ない。
一体どうしてこんなことになったのだろう。
あれから時間を見つけては、お守りの指輪を探しているけれど、見つかっていない。
指輪からチェーンを外してから、様々なことが起こっている気がする。最も、全てが悪いことではないけれど……。
あの日の夜――真剣な瞳、叩きつけるように告げられた想い、噛みつくようなキス――ふとした瞬間に、思い出してしまう。一度思い出してしまったら、緩む口元を抑えることは難しい。だが、ここは王宮、しかも王族の居住棟だ。こんなにだらしない顔でいてはいけない。なんとか顔に力を入れて、キリリと真面目な顔にならなくては。
「アリス・フォンタニエ?」
「はいっ」
ついつい、緩み切った顔で振り返ってしまった。
* * *
「あなたねえ、一体ここをどこだと思っているの?王族の方々の居住棟よ?そんなニマニマだらしない顔をして仕事ができる場所ではないのよ?」
「申し訳ありません」
声をかけたのは、アリスに指導をおこなう、侍女頭のエリーズ・フェーブルだった。
今、アリスはそのエリーズに連れられ、部屋に案内されたところだ。
アリスにあてがわれた部屋は、ベアトリスの部屋がある階の一番手前だった。回廊から曲がってすぐが、アリスの部屋ということになる。
「一番奥が、ベアトリス様のお部屋よ。そこから順にわたくし、それから順に侍女の部屋、新入りのあなたが一番手前よ」
「はい」
廊下の向かい側の、窓のない部屋は、お茶をすぐ用意出来るよう、簡単なキッチンや茶器が置かれた部屋に、交換用のリネン類が置かれた部屋だそうだ。
エリーズはアリスに場所をしっかり覚えておくようにと、付け足した。
部屋に入り中を見渡すと、こぢんまりしているものの、さすが王宮内ということもあり、装飾や家具は豪華だった。クローゼットや姿見、鏡台など、これまでの部屋にはなかった家具も揃っている。やはり、侍女になるような人たちは、貴族ということもあるのだろう。
屋敷の自分の部屋よりも豪華かもしれない。椅子は見事な刺繍の入った布張りだし、机の引き出しも凝った装飾がついている。ベッドも――そこで、アリスは見慣れないものがベッド横の壁についていることに、気がついた。ベルのように見えるが、用途が分からなかった。
「それは、ベアトリス様が用事がある時に鳴らすベルです。わたくし達は、深夜もお呼び出しの際はすぐに駆けつけなければなりません。仕事着もきちんと、近くに用意しておくようにね」
なんでも、ベアトリス王女殿下のベッドに、紐が下がっており、それを引くとこのベルが鳴るのだそうだ。そんなに頻繁に呼ばれるものなのだろうか?
アリスがベルを見ていると、部屋の外からカシャン、カシャン、と金属がぶつかるような音が聞こえ、驚いて身体がビクッと跳ね上がった。その様子に、エリーズが鼻を鳴らす。
「廊下の警備兵が交代したのよ。朝・昼・晩の三交代」
警備兵は廊下の突き当り――つまり、ベアトリスの部屋の前と、廊下の入り口に配置されていた。
この空間はベアトリスの私的な場所のため、客の出入りはない。その為、廊下の入り口にも配置されているということだった。その場所に一番近いため、必然的に交代の音はアリスの部屋にも聞こえる。新入りなのだから仕方がないことではあるが、慣れるまでは心臓に悪そうだ。
交代の際、互いの帯剣を鞘のまま二度打ち付けるのが儀式なのだそうだ。それならば、ベアトリス王女殿下の部屋の前も……も思いきや、それは音で驚かせてしまうことを考慮して、やらないと言う。
確かに、いくら守ってくれていると分かっていても、この音を部屋の外で鳴らされては落ち着けないだろう。
ラウル殿下が度々抜け出すというのも、そんな閉塞的な空気から逃れるためなのかもしれない。それに、こんな状態では恋人を呼ぶこともできないのだから、自ら出向くしかないわけだ。結果、噂になっているのだから、少し同情してしまう。
ただ、やはりアリスごときに遠慮をしてくれるはずもなく、廊下入口の警備はこの儀式はしっかりおこなわれる。
「元々、この儀式は周囲に対して『しっかり警備している』とアピールする意味があるの。ここでは、『この先には通さない』という意思表示よ。この音に慣れることは、王族の侍女になる上での通過儀礼のようなもの。早く慣れなさい」
「はい」
「それと……」
コホン、とわざとらしく咳き込むと、エリーズは正面からアリスを見据えた。
「侍女とは言っても、色々あるの。あなたはベアトリス様のおそばに付き従うというより、小間使いのようなものよ。その辺りをしっかり自覚して、調子に乗らないことね」
「……はい」
薄々感じてはいたが、やはり歓迎されていないようだ。
気持ちは分からないでもない。両親は元男爵とはいえ、今は隠居の身。アルマンが後見人となってくれているが、アリス自身、自分を貴族令嬢と意識して生きてきたわけではない。
王族の侍女ともなると、全員が名家出身の根っからのご令嬢だ。そのプライドもあるだろう。そんな彼女たちにしてみれば、アリスはどこぞの馬の骨のような感覚なのだろう。
それでも、やはりアリス自身を見てくれると、心のどこかで思っていたのだ。
これまでの騎士訓練所も、衣装部も、アリス自身をちゃんと見てくれた。叱られることもあったが、仕事がちゃんと出来ていれば褒めて、認めてくれたのだ。
なぜ、高貴な立場になればなるほど、視野が狭く、他を認めなくなるのだろう。
それでも、与えられた仕事だ。アリスは仕事を選べる立場ではないのだ。やるしか、なかった。
フンッという音が聞こえるかと思うくらい、ツンと顔を逸らして出て行ったエリーズだったが、アリスが部屋で荷物を解いていると、再びやって来た。
「アリス・フォンタニエ。ベアトリス様がお呼びよ」
「えっ。あ、はい」
本来ならば、今日アリスは休みで、それを利用して引っ越しをしているのだが、王族からの呼び出しともなると休みなどと言ってはいられない。
明らかに不機嫌で、苛立ちを隠そうとしないエリーズは、アリスを急き立てる。
「早くなさい!ベアトリス様をお待たせしないで」
そうは言っても、侍女としてお目にかかるのだから、お仕着せでなくてはならないだろう。
侍女のお仕着せは、今までのものとはくらべものにならない程、作りも質も良いものだ。
着替えている間も、エリーズの小言は続く。
「いい?ベアトリス様のことは、王女殿下ではなく、『ベアトリス様』とお呼びするのよ?これは身近な勤め人だけに許された特権よ。とても光栄なことなの」
「はい」
「それと――仕事をしていると、他の王族の方々と接する機会も多いわ。粗相のないようにするのよ。でも、周りに控えている侍女に臆することがあってはならないわ。ベアトリス様の品位が落ちるというものよ。いつも凛とし、侍女同士はあくまでも対等だということを忘れないで」
「はい」
数日かけて教わるはずの大切なことを、早口でまくしたてられるが、準備の手を止めることもできない。
覚えていられるだろうか――そう思っていたところで、エリーズの声が一段と低く、強く響いた。
「――特に、ラウル殿下の侍女たちには、負けてはダメよ」
「ええっ?」
「ラウル殿下の侍女は、わたくし達に勝ったつもりでいるのよ。いつもツンとすましていて、ラウル殿下のおそばにいることを許された、特権階級だと思っているの!ダメよ。負けてはダメ!バカにされるようなことはあってはならないわ」
「えぇ~……」
ここで言う勝ち負けとは、一体なんなのだろう。
ラウル殿下の侍女になりたかった者と、なれた者の心持の差ではないのか。
すると、エリーズがアリスの肩をぐっと掴んだ。
「特に、アリソン・フォンテーヌ――!あの子、フォンテーヌ侯爵が実力者だからと言って、コネで勤め人一年目でラウル殿下の侍女になったのよ。しかも、侍女の中にはアリソンのお世話をする者もいるの。新入りのくせに、もうすっかり侍女頭を気取っているわ」
「痛いです痛いです痛いです」
肩に指がググッと食い込む。すぐに離してくれたが、肩はまだジンジンする。
これまでに一体、アリソンとどんなことがあったというのだろう。
「とにかく、わたくしが言いたいことは分かったわね?あなたの行動ひとつで、ベアトリス様の評判を落とすの。わたくし達侍女がバカにされるのよ。それだけは気を付けてちょうだい」
鋭い視線がアリスの全身を細かくチェックする。そして一筋のほつれ髪をグッとピンで止めて帽子の中に押し込んだ。
アリスは痛さに顔を顰めるが、文句は言えない。今はとにかく、エリーズから合格をもらわなければ、ベアトリスの元に向かうこともできないのだ。
「――いいわ。行くわよ」
「はい」
背筋をシャンと伸ばして、深呼吸をしてからエリーズの後をついて行く。
突き当りの一際大きく豪華なドアの前に立つと、軽やかにノックした。
「ベアトリス様。アリスをお連れ致しました」
「ありがとう」
アリスはエリーズの後ろにいるため、まだベアトリスの姿は見えていない。
エリーズはアリスを連れてきたことを伝えると、当然のように部屋に入ろうとした。だが、部屋の中から意外な言葉が聞こえた。
「エリーズは出てくれるかしら」
「えっ……ですが……」
「いいの。アリスとふたりで話したいのだから」
ベアトリスの言葉に一番驚いたのはアリスだ。
面識がないのだが、ベアトリスはさもアリスを知っているかのように話している。だが、当然のことながら、アリスにはベアトリスとふたりで話をする理由もわからない。
ポカンとしているアリスを、エリーズが鋭く睨み付ける。
(ええっ、睨まれても、私だってワケが分からないんですけど!)
抗議したかったが、ベアトリスに聞こえてはならない。アリスはグッと言葉を飲み込んだ。
アリスと入れ違いで部屋を出たエリーズが、アリスの耳元で「おかしなことをするんじゃないわよ」と呟いた。
恐ろしい。
なぜかアリスが悪人に仕立て上げられている。
なんとか小さく首を振ると、そのまま背後でドアは閉められた。
光沢の美しいの布が張られた豪華な椅子に、ベアトリスは座っていた。
艶やかな栗色の髪は、綺麗にアップされ、ドレスと同じ真っ青なリボンでまとめられ、目鼻立ちのくっきりとした小顔が引き立っている。薄い青の瞳はほんのりと紫がかっており、その神秘的な眼差しで見つめられ、アリスはドキマギした。
「あなたがアリスね」
丸くふっくらとした唇から自分の名前がでてきて、ハッとアリスが我に返る。
見惚れていて、挨拶をしていないことに気が付いた。慌てて足を折り、腰を落とす。
「ご挨拶が遅れました。お初にお目にかかります。アリス・フォンタニエでございます」
「堅苦しい挨拶はいいわ。さ、こちらに来てちょうだい」
ラウルのようにハッと目を惹く美貌ではないが、やはりその姿には気品を感じる。
アリスは足を動かそうとして、思った以上に緊張していることに気づいた。それに気がついたのか、ベアトリスが噴き出した。
「ごめんなさい。突然のことで、驚いているわよね」
「ええと……」
「いいのよ。他には誰もいないのだから、少し肩の力を抜いてちょうだい」
そう言われても、はいそうですか、とすぐに緊張は取れない。どうしたものかと、アリスはそのままベアトリスの言葉を待った。
「この前のピンクのドレス。あのドレスに布薔薇を付ける提案をしたのは、あなたでしょう?」
「えっ……。なぜ、それを……」
「先日、離宮で夜会を開いたの。あのドレスを着て参加したのだけれど、衣装部の子が飾りを作ってくれたと話したら、それはあなただと、グレースが話していたの」
長姉の名前を聞いて、アリスは「あ」と口を開けた。
グレースは夫とふたりで、離宮の管理者をしているのだ。この前のお茶会で、同じような布薔薇でアレンジしたドレスを着て行ったこともあり、グレースの記憶に残っていたのだろう。
「あなたが呼ばれた理由、わかった?」
「はい。ですが、それで侍女に、というのは、まだわかりません」
「あなたはシンプルなドレスを、自分でアレンジして着ていると聞いたの。わたくし、お兄様と較べたら地味でしょう?」
どう答えたものかと一瞬止まるが、慌てて否定する。だが、ベアトリスが軽く手を振って制止した。
「いいのよ。自分でもわかっているの。それで、なんとか目立とうとドレスや装飾に凝っていたのだけれど――もう案がないのよ。デザイナ―から程よい露出が流行だと聞いたから、思い切って胸を大きく開けたら大失敗だったし……迷走しているの」
そういえば、ポリーヌもベアトリスがよくギリギリになって直しを言ってくると頭を抱えていた。あの大きく胸が開いたドレスを見た時は、かなりグラマラスな体型なのかと思っていたが、実際会ってみると、程よいサイズの胸がついている。これでは、あのドレスは角度によってはかなりきわどくなったに違いない。
「あの時は本当に助かったわ。それに、とても評判が良かったの。わたくしだけ、他の参加者とは違ったから、とても気分が良かったわ。だから、あなたにはわたくしの専属になってもらいたくて」
「勿体ないお言葉でございます。わたくしでよろしければ、お手伝いさせてくださいませ」
「ありがとう。――ついでに、もうひとつ、聞きたいことがあるの」
「なんでございましょう?」
「あなた、マルセルと仲が良いんですってね。わたくし、なんとか彼を落としたいの」
「――は?」
思わぬ発言に、まぬけな音がアリスの口から洩れた。