次期国王は独占欲を我慢できない
ベアトリスの勢いそのままについてきたものの、なにも話さず脇目もふらずに歩くベアトリスがまとう空気は張りつめている。アリスもまた、どう声をかけていいものか分からず、ただそれに付き従った。
丘を下りたところで、ベアトリスが口を開いた。
「あんなそこ辺に咲いているような花、女心がわかっていないにも程があると思わない?」
「えっ?」
「マルセルが用意した花よ。王宮の温室でなら、冬でも美しい花が手に入るわ」
「そうですが……。マルセルさんは、誰にも頼りたくなかったのではないでしょうか」
最初訪ねた時、アリスの訪問を断ろうとしていた。きっと、誰に知られることなく、花を手向けたかったのだろう。
「わかっているわ。それがマルセルにとっての儀式で、カロリーヌにできる唯一のことだと思っているのよね。でもね、違うと思うの」
「違うんですか?」
「カロリーヌは、自分が愛されていないと知っていたのでしょう?だからマルセルを自由にしておいた。彼の愛を求めなかったのだわ。それなら、今の彼の生き方は、どうかしら?」
「カロリーヌさんは、望んでいないということですか?」
「ええ。極力人と接しない世捨て人のような生き方を、カロリーヌは望んだかしら……って考えたの。愛した人に、そんなことを望むかしら?わたくしは違うと思ったの」
確かに、マルセルは大体いつもひとりだった。
王宮に勤めているにも関わらず、隠居生活のような日々を送っていた。
「お父様やお兄様がマルセルを心配してよく様子を見に行っていたわ。でも、そんな生活を変えようとはしなかった。そこにあなたが突然入り込んだものだから、驚いたわ」
「すみません……。馬が見たくて、用事を見つけては厩舎の周りをうろついていたので……」
「いいのよ。それで、『ああ、彼はまだ人を受け入れることができる』って知ったのだもの。俄然希望が湧くというものだわ」
ベアトリスとさほど年齢の変わらない女の子が、よくマルセルのところにいると聞いた時は、それがどんな人物なのか知りたかったと同時に、マルセルが人と関わろうとしたことが嬉しかった。これならば、もうベアトリスも飛び込むしかない。
「遠慮なんかしていては、わたくしもおばあちゃんになってしまうわ。その頃、マルセルはどう?さすがに訓練を重ねた元騎馬隊長でも、ヨボヨボのおじいさんか、亡くなってしまっているわね。同年代と違って、わたくしとマルセルの年齢差を考えると、時間というものは貴重なものなの。悩んだりしている暇なんてないのよ。でも……すごく恥ずかしいわ」
「ベアトリス様――」
フードに隠れてしまっているが、アリスから見える頬から顎にかけても、少し赤い。あれは、ベアトリスの大きな賭けだったのだ。
「今になって、手が震えているの。でも、ちゃんとわたくしを見て欲しかったのよ」
「あの、少し驚きましたが……、でもとてもご立派でした!」
さすがのマルセルも、年齢差を言い訳にのらりくらり避けてはいられないだろう。そんな覚悟を感じさせるものだった。
姿が見えなくなるまで時々振り返ったが、マルセルは最後まで固まったままだった。あれが、なにを意味するか、ベアトリスもまた向き合わなければならない。
「その場で拒絶されてもおかしくないと、覚悟していたわ。――そうはならなかったけれど、マルセルがどう思ったか……それを考えると、とても怖いわ。なにを言われても揺るがない自信はあるけれど、それでも怖いわ。好きな人なんだもの。アリス、わかる?」
「……はい。私にも、分かります」
「まあ、アリスにも好いている人がいるのね?どんな方?」
ここまで心の内をさらけ出してくれたベアトリスだ。密偵の存在も知っているのだから、話しても問題はないだろう。
アリスは、初めて黒尽くめの青年の存在を告白した。
「実は、出会ったのは本当に偶然なのですが、その方もマルセルさんと仲が良いみたいで、マルセルさんのところでよく会いました」
「え?そうですの?なんてお方?」
「お名前は……存じ上げないのです。実は、お仕事が密偵なのです」
「まあ。わたくしなら、名前くらいはわかるかもしれませんわよ?どんな方?」
「細身の長身で……黒髪でいつも服は黒尽くめです。あ、紫色の瞳の方です」
「え?」
確かに、アリスの言う特徴は密偵のものと似ている。だが、この王宮には紫の瞳の人間は、ベアトリスとラウルしかいなかったはずだ。
「…………そういうことですの」
ベアトリスの中で疑問だったことが、全て繋がった。
よくマルセルを訪ねていたラウルを、アリスが一度も見ていないのは、ラウルが変装していたからなのだ。そして、アリスを伴い朝食に向かった日、ラウルが驚いたようにこちらを見ていたのも、思わず「アリ――」と名前を呼びかけたのも、理由がわかった。
あれを、自分を呼んだとアリソンは勘違いしていたが、違う。あれは、アリスの名前が口をついて出たのだ。
「え?どうかなさいましたか?」
「いいえ。あのね、アリス。わたくし、思いましたの。やっぱりご自分で名前をお聞きした方がいいわ。だって、わたくしが教えてしまっては、なんの意味もありませんもの」
「はぁ……。でも、そうですね」
アリスはすんなりと頷く。
アリスにも、他の人に聞いて知っても、意味がないとわかっているのだ。これは、自分の目で、耳で、触れて、確かめるしかないし、そうすべきだ。
「お互い、厄介な相手を好きになりましたわね」
「はい」
「……でも、今はもっと厄介な相手をどうにかしないといけないようですわ……」
「――はい……」
視線の先には、腰に手をあて、仁王立ちでこちらを睨みつけるエリーズがいた。
「ベアトリス様っ!一体どちらにいらしたのですかっ!オーギュスト先生がずーーーっとお待ちですよ!」
オーギュストとは、ベアトリスのダンス講師をしている、初老の紳士だ。――ということは、ベアトリスは午前の稽古をサボってきたということになる。
「あ、あら。今日は確か、午後からではなかったかしら?」
「いいえ!今日は一日ダンスのお稽古だと、今朝申し上げたはずです!」
「おかしいわね……。わたくし、寝ぼけていたのかしら……」
すっとぼけるベアトリスをこれ以上追及できないと思ったのか、エリーズの怒りの矛先はアリスに向いた。
「大体!なぜあなたと一緒なのかしら!?」
「ええっ?」
アリスにしてみれば、そもそもの予定にベアトリスが割り込んできたというのがアリスの言い分であるため、そんなことを言われても困る。結局、アリスの目的だった指輪のこともマルセルに聞けず仕舞いだったし、その上エリーズに責められては踏んだり蹴ったりだ。
「あなた、今日は休日のはずよ。なぜベアトリス様とご一緒なの!?」
「それは、そのぅ……」
聞かれたからと言って、まさかベアトリスがマルセルの妻の墓に花を供えて宣言し、マルセルにキスをした、など言えるわけがない。
「アリスは、そこで偶然会ったのよ。それでドレスのデザインついて少し話をしていただけだわ。雪が降って少し庭を歩きたかったの。ただそれだけよ。さ、エリーズ、行きましょう。オーギュスト先生に謝らなければ」
「……はい」
「アリス、では先ほどの話の通り、午後に買うレースリボンは、戻ってから見せてくださる?」
「は、はい」
苦々しい表情でアリスを一瞥したものの、ベアトリスに促され、王宮内に戻る。ホッとしたものの、これで更に目の敵にされそうだ。アリスはそっと嘆息した。
* * *
「アリス。午後から街に出るのですって?」
出かけようとマントを羽織り、廊下を歩いているアリスに話しかけてきたのは、サラだった。
「はい。ドレスのアレンジに使う、レースリボンを見にレース屋に行ってきます」
「そう。どうやって行くの?」
「どうやって……。歩いて、ですけれど。少し街を散策したいので」
こちらに来てから、街に出たのは、フォンタニエ男爵家のお茶会に招待された時だけだ。あの時は、男爵家の馬車が迎えに来てくれたので、それに乗って行ったのだが、馬車の窓から見える景色だけでも、王都の街は活気にあふれていてワクワクした。せっかくだから、その街の雰囲気も楽しみたい。それに、用事があるとはいえ、マノンの店にだけ顔を出して、王都で警察官をしているエミールのところには行かないというのも、悪い気がする。
「そう。じゃあ、いいわね」
そう素っ気なく言うと、サラは行ってしまった。
残されたアリスは、言葉の意味がわからなくて首を傾げる。
一体、なにがどうして「いいわね」になるのだろう。これは「いらないわね」の意味なのか、「良いわね」の意味なのかも図りかねたが、急がなければ帰りが遅くなってしまうので、出かけることにした。
門を出ると、様々な店が軒を連ねる大通りがある。だが、そこにたどり着くまでがなかなか大変なのだ。なにしろ、王宮は広い。アリスは足早に門に向かった。
「サラ、アリスに馬車の手配の仕方を教えてくれた?」
「いいえ。アリスは街を散策したいから、歩きたいのだそうです」
「ええっ?王宮の用事で出かけるのだもの。馬車を手配しなくてはならないでしょう」
エリーズの小言に、サラは不服そうに口を尖らせる。
「でも、今日アリスは休日で私服なのですから、そこまで気をまわす必要はありませんよ」
「……そう……。そうねえ」
王宮の使いは、馬車を利用して街に出ることができる。
貴重品を持っていたり、高価な店を利用する場合が多いからだ。だが、今日のアリスに限っては、それに当てはまらない部分があった。
金品目当てのガラの悪い連中は、勤め人のお仕着せを把握しているのだ。それを分かった上で、近づいてくる。だが、アリスは私服だ。街を歩いている限り、田舎からやって来た少女といった雰囲気だ。
サラの言う通り、そこまで気をまわす必要もないかもしれない。それに、エリーズにも少しだけ、アリスに対して面白くないという感情があった。
やっと街に出たアリスは、立ち並ぶ店や行き交う人々に、きょろきょろと忙しなく視線を動かした。
本屋に、仕立て屋、菓子屋に果物屋。なんの店かすぐわかる吊り看板が、通りを賑わしている。花屋は大きな窓から中を覗けるようになっており、冬だというのに温室育ちのカラフルな花々が目を楽しませていた。パン屋の前を通ると、香ばしい香りが鼻につく。量り売りのワインの店は、店の前に大きな樽を置き、試飲できるようになっていた。
(すごい……!領地の商店街とは全然違うわ!)
アリスは気になる店で立ち止まり、窓辺に飾られた商品を眺めたり、勧められるままに髪飾りを試してみたりした。細い金具を器用に丸め、花をかたどった髪留めの中心に、小さな紫の宝石がついている。その色合いが、黒尽くめの青年の瞳によく似ていた。
「お似合いですよ」
手鏡を持ち、店員が褒めてくれるが、鏡に映るのは化粧もせず艶の少ない茶色の癖毛をざっくりとまとめただけの、地味な姿だった。
(これなら、せめてもう少し着飾ってくれば良かったわ……)
さすがに「似合う」と言われても、お世辞にしか聞こえない。
店にいる他の客は皆、綺麗な色のドレスやワンピースを着て、しっかりと化粧を施した女性たちばかりだ。店に入った時は細工の美しさに見惚れて、気づかなかった。今の自分はなんと場違いなのだろう。
アリスは丁重に断ると、しょんぼりしながら店を出た。
(今日は用事で来たんだもの。マノンお姉さまのところにさっさと行こう)
マノンに書いてもらった地図をポケットから出し、確認する。
このまま奥に行ったこの大通り添いにあるようだ。さすがは、王都一のレース屋である。
これなら迷わずにたどり着きそうだ。地図を仕舞い込むと、寄り道せずにまっすぐ向かった。
この時既にアリスを見ていた者がいたことを、彼女はまだ知らない。
丘を下りたところで、ベアトリスが口を開いた。
「あんなそこ辺に咲いているような花、女心がわかっていないにも程があると思わない?」
「えっ?」
「マルセルが用意した花よ。王宮の温室でなら、冬でも美しい花が手に入るわ」
「そうですが……。マルセルさんは、誰にも頼りたくなかったのではないでしょうか」
最初訪ねた時、アリスの訪問を断ろうとしていた。きっと、誰に知られることなく、花を手向けたかったのだろう。
「わかっているわ。それがマルセルにとっての儀式で、カロリーヌにできる唯一のことだと思っているのよね。でもね、違うと思うの」
「違うんですか?」
「カロリーヌは、自分が愛されていないと知っていたのでしょう?だからマルセルを自由にしておいた。彼の愛を求めなかったのだわ。それなら、今の彼の生き方は、どうかしら?」
「カロリーヌさんは、望んでいないということですか?」
「ええ。極力人と接しない世捨て人のような生き方を、カロリーヌは望んだかしら……って考えたの。愛した人に、そんなことを望むかしら?わたくしは違うと思ったの」
確かに、マルセルは大体いつもひとりだった。
王宮に勤めているにも関わらず、隠居生活のような日々を送っていた。
「お父様やお兄様がマルセルを心配してよく様子を見に行っていたわ。でも、そんな生活を変えようとはしなかった。そこにあなたが突然入り込んだものだから、驚いたわ」
「すみません……。馬が見たくて、用事を見つけては厩舎の周りをうろついていたので……」
「いいのよ。それで、『ああ、彼はまだ人を受け入れることができる』って知ったのだもの。俄然希望が湧くというものだわ」
ベアトリスとさほど年齢の変わらない女の子が、よくマルセルのところにいると聞いた時は、それがどんな人物なのか知りたかったと同時に、マルセルが人と関わろうとしたことが嬉しかった。これならば、もうベアトリスも飛び込むしかない。
「遠慮なんかしていては、わたくしもおばあちゃんになってしまうわ。その頃、マルセルはどう?さすがに訓練を重ねた元騎馬隊長でも、ヨボヨボのおじいさんか、亡くなってしまっているわね。同年代と違って、わたくしとマルセルの年齢差を考えると、時間というものは貴重なものなの。悩んだりしている暇なんてないのよ。でも……すごく恥ずかしいわ」
「ベアトリス様――」
フードに隠れてしまっているが、アリスから見える頬から顎にかけても、少し赤い。あれは、ベアトリスの大きな賭けだったのだ。
「今になって、手が震えているの。でも、ちゃんとわたくしを見て欲しかったのよ」
「あの、少し驚きましたが……、でもとてもご立派でした!」
さすがのマルセルも、年齢差を言い訳にのらりくらり避けてはいられないだろう。そんな覚悟を感じさせるものだった。
姿が見えなくなるまで時々振り返ったが、マルセルは最後まで固まったままだった。あれが、なにを意味するか、ベアトリスもまた向き合わなければならない。
「その場で拒絶されてもおかしくないと、覚悟していたわ。――そうはならなかったけれど、マルセルがどう思ったか……それを考えると、とても怖いわ。なにを言われても揺るがない自信はあるけれど、それでも怖いわ。好きな人なんだもの。アリス、わかる?」
「……はい。私にも、分かります」
「まあ、アリスにも好いている人がいるのね?どんな方?」
ここまで心の内をさらけ出してくれたベアトリスだ。密偵の存在も知っているのだから、話しても問題はないだろう。
アリスは、初めて黒尽くめの青年の存在を告白した。
「実は、出会ったのは本当に偶然なのですが、その方もマルセルさんと仲が良いみたいで、マルセルさんのところでよく会いました」
「え?そうですの?なんてお方?」
「お名前は……存じ上げないのです。実は、お仕事が密偵なのです」
「まあ。わたくしなら、名前くらいはわかるかもしれませんわよ?どんな方?」
「細身の長身で……黒髪でいつも服は黒尽くめです。あ、紫色の瞳の方です」
「え?」
確かに、アリスの言う特徴は密偵のものと似ている。だが、この王宮には紫の瞳の人間は、ベアトリスとラウルしかいなかったはずだ。
「…………そういうことですの」
ベアトリスの中で疑問だったことが、全て繋がった。
よくマルセルを訪ねていたラウルを、アリスが一度も見ていないのは、ラウルが変装していたからなのだ。そして、アリスを伴い朝食に向かった日、ラウルが驚いたようにこちらを見ていたのも、思わず「アリ――」と名前を呼びかけたのも、理由がわかった。
あれを、自分を呼んだとアリソンは勘違いしていたが、違う。あれは、アリスの名前が口をついて出たのだ。
「え?どうかなさいましたか?」
「いいえ。あのね、アリス。わたくし、思いましたの。やっぱりご自分で名前をお聞きした方がいいわ。だって、わたくしが教えてしまっては、なんの意味もありませんもの」
「はぁ……。でも、そうですね」
アリスはすんなりと頷く。
アリスにも、他の人に聞いて知っても、意味がないとわかっているのだ。これは、自分の目で、耳で、触れて、確かめるしかないし、そうすべきだ。
「お互い、厄介な相手を好きになりましたわね」
「はい」
「……でも、今はもっと厄介な相手をどうにかしないといけないようですわ……」
「――はい……」
視線の先には、腰に手をあて、仁王立ちでこちらを睨みつけるエリーズがいた。
「ベアトリス様っ!一体どちらにいらしたのですかっ!オーギュスト先生がずーーーっとお待ちですよ!」
オーギュストとは、ベアトリスのダンス講師をしている、初老の紳士だ。――ということは、ベアトリスは午前の稽古をサボってきたということになる。
「あ、あら。今日は確か、午後からではなかったかしら?」
「いいえ!今日は一日ダンスのお稽古だと、今朝申し上げたはずです!」
「おかしいわね……。わたくし、寝ぼけていたのかしら……」
すっとぼけるベアトリスをこれ以上追及できないと思ったのか、エリーズの怒りの矛先はアリスに向いた。
「大体!なぜあなたと一緒なのかしら!?」
「ええっ?」
アリスにしてみれば、そもそもの予定にベアトリスが割り込んできたというのがアリスの言い分であるため、そんなことを言われても困る。結局、アリスの目的だった指輪のこともマルセルに聞けず仕舞いだったし、その上エリーズに責められては踏んだり蹴ったりだ。
「あなた、今日は休日のはずよ。なぜベアトリス様とご一緒なの!?」
「それは、そのぅ……」
聞かれたからと言って、まさかベアトリスがマルセルの妻の墓に花を供えて宣言し、マルセルにキスをした、など言えるわけがない。
「アリスは、そこで偶然会ったのよ。それでドレスのデザインついて少し話をしていただけだわ。雪が降って少し庭を歩きたかったの。ただそれだけよ。さ、エリーズ、行きましょう。オーギュスト先生に謝らなければ」
「……はい」
「アリス、では先ほどの話の通り、午後に買うレースリボンは、戻ってから見せてくださる?」
「は、はい」
苦々しい表情でアリスを一瞥したものの、ベアトリスに促され、王宮内に戻る。ホッとしたものの、これで更に目の敵にされそうだ。アリスはそっと嘆息した。
* * *
「アリス。午後から街に出るのですって?」
出かけようとマントを羽織り、廊下を歩いているアリスに話しかけてきたのは、サラだった。
「はい。ドレスのアレンジに使う、レースリボンを見にレース屋に行ってきます」
「そう。どうやって行くの?」
「どうやって……。歩いて、ですけれど。少し街を散策したいので」
こちらに来てから、街に出たのは、フォンタニエ男爵家のお茶会に招待された時だけだ。あの時は、男爵家の馬車が迎えに来てくれたので、それに乗って行ったのだが、馬車の窓から見える景色だけでも、王都の街は活気にあふれていてワクワクした。せっかくだから、その街の雰囲気も楽しみたい。それに、用事があるとはいえ、マノンの店にだけ顔を出して、王都で警察官をしているエミールのところには行かないというのも、悪い気がする。
「そう。じゃあ、いいわね」
そう素っ気なく言うと、サラは行ってしまった。
残されたアリスは、言葉の意味がわからなくて首を傾げる。
一体、なにがどうして「いいわね」になるのだろう。これは「いらないわね」の意味なのか、「良いわね」の意味なのかも図りかねたが、急がなければ帰りが遅くなってしまうので、出かけることにした。
門を出ると、様々な店が軒を連ねる大通りがある。だが、そこにたどり着くまでがなかなか大変なのだ。なにしろ、王宮は広い。アリスは足早に門に向かった。
「サラ、アリスに馬車の手配の仕方を教えてくれた?」
「いいえ。アリスは街を散策したいから、歩きたいのだそうです」
「ええっ?王宮の用事で出かけるのだもの。馬車を手配しなくてはならないでしょう」
エリーズの小言に、サラは不服そうに口を尖らせる。
「でも、今日アリスは休日で私服なのですから、そこまで気をまわす必要はありませんよ」
「……そう……。そうねえ」
王宮の使いは、馬車を利用して街に出ることができる。
貴重品を持っていたり、高価な店を利用する場合が多いからだ。だが、今日のアリスに限っては、それに当てはまらない部分があった。
金品目当てのガラの悪い連中は、勤め人のお仕着せを把握しているのだ。それを分かった上で、近づいてくる。だが、アリスは私服だ。街を歩いている限り、田舎からやって来た少女といった雰囲気だ。
サラの言う通り、そこまで気をまわす必要もないかもしれない。それに、エリーズにも少しだけ、アリスに対して面白くないという感情があった。
やっと街に出たアリスは、立ち並ぶ店や行き交う人々に、きょろきょろと忙しなく視線を動かした。
本屋に、仕立て屋、菓子屋に果物屋。なんの店かすぐわかる吊り看板が、通りを賑わしている。花屋は大きな窓から中を覗けるようになっており、冬だというのに温室育ちのカラフルな花々が目を楽しませていた。パン屋の前を通ると、香ばしい香りが鼻につく。量り売りのワインの店は、店の前に大きな樽を置き、試飲できるようになっていた。
(すごい……!領地の商店街とは全然違うわ!)
アリスは気になる店で立ち止まり、窓辺に飾られた商品を眺めたり、勧められるままに髪飾りを試してみたりした。細い金具を器用に丸め、花をかたどった髪留めの中心に、小さな紫の宝石がついている。その色合いが、黒尽くめの青年の瞳によく似ていた。
「お似合いですよ」
手鏡を持ち、店員が褒めてくれるが、鏡に映るのは化粧もせず艶の少ない茶色の癖毛をざっくりとまとめただけの、地味な姿だった。
(これなら、せめてもう少し着飾ってくれば良かったわ……)
さすがに「似合う」と言われても、お世辞にしか聞こえない。
店にいる他の客は皆、綺麗な色のドレスやワンピースを着て、しっかりと化粧を施した女性たちばかりだ。店に入った時は細工の美しさに見惚れて、気づかなかった。今の自分はなんと場違いなのだろう。
アリスは丁重に断ると、しょんぼりしながら店を出た。
(今日は用事で来たんだもの。マノンお姉さまのところにさっさと行こう)
マノンに書いてもらった地図をポケットから出し、確認する。
このまま奥に行ったこの大通り添いにあるようだ。さすがは、王都一のレース屋である。
これなら迷わずにたどり着きそうだ。地図を仕舞い込むと、寄り道せずにまっすぐ向かった。
この時既にアリスを見ていた者がいたことを、彼女はまだ知らない。