次期国王は独占欲を我慢できない
「まあ! アリス。いらっしゃい!」

 少し気持ちが沈んでいたアリスを迎えてくれたのは、マノンの明るい笑顔だった。

「マノンお姉さま!」
「もう。あなたったら、王宮勤めになったというのに、相変わらず化粧っ気がないのね」
「今日はお休みなのよ。普段お仕事している時は、ちゃんとお化粧もしているし、髪ももっとしっかり結っているのよ?」

 先ほどの店で味わった少しの羞恥心から、つい口調が言い訳がましくなってしまう。

「それがアリスらしいところでもあるんだけれども」
「あまり、嬉しくないわ。これからは、普段からもう少し身ぎれいにするわ」
「あらあら。どういう心境の変化?もしかして、好きな人でもできたかしら?」

 マノンの言葉に口ごもると、マノンが嬉しそうに笑った。

「まあまあ!素敵ね。私はね、アリス。あなた自身が好きだから、あなたが化粧してようといまいと、ドレスだろうとなんだろうと、構わないわ。でも、あなたがもしその人のために綺麗になりたいって思っているなら、それはとても素敵なことだと思うわ」
「自分でも、よくわからないの。汚れてもいいような恰好で会ったこともあるから、そんなことを気にする人じゃないっていうのは分かっているんだけれど……」

 アリスは正直に、先ほどの雑貨店での出来事を話した。
 そもそも、どうしてあの店に入ったのだろう。興味本位で店を覗くことは昔からあった。だが、考えてみれば、装飾品を見に自分から店に入ったことはないかもしれない。今は仕事柄、ドレスのアレンジのことも頭にはあるが、あれは自分の好みで、自分が身に着ける物として見ていた。それなのに、鏡を見ると、そこにいたのは、自分を着飾ることに興味のなかったアリスだったのだ。
 これまでの考え方と、この行動が結びつかなくて、少し動揺もしていたし、なにより周囲の身ぎれいな客を見ていたたまれなくなってしまった。

「それが、恋というものだと思うわ。アリスはこれまで自然体で会っていたのでしょうけれど、綺麗な自分も見て欲しいって思ったのね」
「そうなのかしら……。でも……そうね。汚れても構わない恰好は気が楽だけれど、やっぱり少しでも綺麗って思ってもらえたら、嬉しいな」

 最後、「嬉しいな」と言いながらはにかんだアリスに、マノンは胸がいっぱいになった。
 離れて暮らした末の妹のことは、マノンも気にかけていた。アルマンから「男爵令嬢として社交界デビューできない」と知らされてからは、なおの事だ。
 両親は仲睦まじく、現在は健康だが、それでも高齢だ。アリスが成人し、独り立ちする時まで、両親健在で支えることができればいいが、どうなるかはわからない。先日も、高齢ということもあって、王都の男爵家で開かれたお茶会には出席できなかったのだ。
 アリスは兄姉で守らなければならない――!そう、四人は決意したのである。
 だが、甘やかされていたとはいえ、田舎育ちというのも良かったのか、それとも手のかかるリュカが傍にいたからなのか、アリスはしっかり者に育った。リュカがあれこれ邪魔するものだから、異性関係が疎いまま仕事を始めたことが気になっていたが、それもいつの間にかひとりで乗り越えようとしている。

(この子は強い子だわ……)

 年の離れたマノンとしては、このアリスの成長は母のように嬉しいものだった。

「ねえ、アリス。私、記念になにかプレゼントしたいわ。そうね、その髪留めを贈らせて」
「えっ?悪いよ」
「いいのいいの。この通りの北側にある雑貨店よね?」
「そう。赤毛の綺麗な店員さんがいたわ」
「ニナの店だわ。うん、わかった。後で買って王宮の宿舎に届けるわね」
「あっ。私、今王宮の方にお部屋があるの」
「ええっ?ま、待ってちょうだい。あなた、今何の仕事をしているの?」

 アリスが、ベアトリスの侍女をしていると言うと、マノンは大騒ぎだ。フォンタニエ男爵家始まって以来の快挙だと喜んでいる。そういえば、この短期間の異動の慌ただしさに、兄姉たちに新しい職場を知らせる余裕がなかった。

「凄いじゃないの!てっきり、衣装部の用事でここに来たんだと思っていたわ。もう、あんたって子は!プレゼントもうひとつ、うちのレースリボン、好きなのひとつ、選んじゃって!」
「いいの?」
「勿論。アリスの侍女就任祝いよ。言っとくけど、ここぞという時に着る、自分のためのドレスに使う、自分のためのリボンを選ぶのよ?」

 お礼を言い、アリスは改めて店の壁に飾られたリボンを選び始めた。
 マノンから話は聞いていたものの、色もデザインも様々だ。リボンの色や幅の多様であれば、レースのデザインも多様なのだから、組み合わせは無限大だ。アリスはその中から、深い青の幅広リボンの両端に、薔薇が並んだレースが縫い付けられたリボンを選んだ。薔薇は立体的に編まれており、小さな白い蕾と、大きな薔薇は中心が淡いピンク色で、繊細な上品さと華やかさを兼ね備えたものだった。

「あら、意外。それ結構落ち着いたデザインよ?ベアトリス王女殿下が新年の舞踏会でお召しになるというから、もっと明るくて、華やかな色合いを選ぶのかと思った」
「そうなんだけど……。可愛らしさとかより、落ち着きというか、上品さを全面に出した方がいいかなって思うの」
「へえ。そういうお方なのね」

 ベアトリスは、この舞踏会のパートナーにマルセルを希望するはずだ。
 年の差を理由に、一度は突き放されたベアトリスだ。そんな年齢差を痛感するような、年相応の可愛らしいデザインを喜ぶとは思えない。
 アリスが推したのは、角度によっては紫色に見えるベアトリスの不思議な瞳の色と同じ、水色と淡い紫のグラデーションドレスだ。可憐や豪華というよりは、凛とした気品のあるデザインだ。アリスは、全体的に淡い色のそのドレスには、ハッキリした色の深い青が、ドレスの繊細な美しさを際立たせると考えた。

「ええ。とても素敵なお方なの」
「アリスはどれにする?」
「え?今?」
「そうよ。だって、次いつ来れる?」

 確かにそうだ。
 こうして来ようと思えばいつでも来ることができたのに、なかなかそうしようとはしなかった。
 今日だって、用事があったから来ることができたのだ。それほどに、王宮での生活は濃く、瞬く間に過ぎて行った。ほんの数か月なのに、色々なことがあった。
 これまでの事を思い浮かべながらリボンを選んでいた、アリスの手が止まる。
 視線が止まった先にあったのは、やはり黒尽くめの青年の瞳のような、美しい紫のリボンだった。リボンの中央に、これまた立体的に編まれたレースの黄色い花が並んでいる。合間合間に黄緑色の葉っぱまで覗いていて、造りがとても細かい。

「これ……素敵」
「あらま。これまた意外。その花ね、たんぽぽをデザインしているのよ。あ、そういう意味では、アリスっぽいかも」
「私?」
「そう。アリスは大輪の薔薇というよりは、野に逞しく可憐に咲くたんぽぽって感じだから」
「…………」
「あ、褒めてるわよ!?本当に」
「うん、ありがとう。これ……欲しいな」

 黒尽くめの青年の瞳の色だと思って手に取ったリボンだったが、そこに縫い付けられたレース編みが、アリスみたいだと言われるとは思わなかった。
 嬉しそうに、愛おしそうにリボンを受け取るアリスを見て、マノンは複雑だ。
 いつか、いい人に出会い、幸せになって欲しいと思っていた。
 フォンタニエ家は、仲の良い家族だった。だが、それぞれが仕事を持ち、結婚し、家を出て、段々と心の距離が離れていった。アリスは、そんな時にフォンタニエ家に現れた天使のような存在だったのだ。アリスが生まれてからというもの、なにかにつけて一族が集まるようになった。自然と離れそうになっていたマノン達の距離を、再び家族に引き寄せてくれた存在だった。
 いつか、アリスにも運命の相手は訪れると思っていたし、それを望んでいた。でもまさか、こんなに早いとは……。同じ女であるマノンは、応援したい気持ちでいっぱいだが、双子の兄を思うと頭が痛い。アリスに恋愛なんてまだ早いと息巻いていたエミールが、これを知ったらなんと言うだろう。

「マノンお姉さま、本当にありがとう。今日、ここに来られて良かったわ」
「え?ううん、私こそ、嬉しかったわ。いつか、その……彼を紹介してね」
「できたらいいけど……。まだ、きちんと気持ちを伝えていないの」
「あ、そうなのね。それなら……まだエミールには言わない方がいいわ。きっと、どんな手を使っても相手を探し出して会いに行くから」

 アリスは吹き出したが、マノンが真顔で続けると、「わかったわ」と頷いた。

「じゃあ、エミールに会ってあげて。あんたがここに来て自分のところに来なかったなんて知ったら、ショックで寝込んじゃう」
「うん。後で行くつもりだったの」
「警察の詰所にいるはずだから。近道を教えるわね」

 マノンがまた紙に地図を書いてくれた。
 レース編みのデザインもやっているマノンは、地図を書くのも上手だ。スラスラと踊るように動くペンを見ていると、感心する。
 受け取った地図では、二本横の通りのようだった。

「この太い線で書いた通りに行くと、早いわよ。狭い路地を通るけど、見逃さないようにね。目印は書いたから」
「うん、わかったわ。ありがとう」

 大事そうにリボンの入った包みを持ち、店を出る。
 手を振ってマノンを分かれた後、アリスは地図を見ながら通りを歩いていた。
 思ったよりも長居をしてしまったようで、通りを見下ろすように建てられた大きな時計台は、日暮れまで間もないことを知らせていた。

「やだ。すっかり話し込んじゃった」

 この時期は日が短いのだ。まだそんなに遅くない時間でも、どんどん太陽は傾いて行く。
 足早に細い路地に入ると、すぐに後を追う影があった。

「ええと……この先に、革製品の工房があって……奥に倉庫があるから、ええと――キャアッ!」

 後ろから黒い服の逞しい手が伸びてきた。
 あ、と思った時にはもう、地図を持っていた手を強く引かれ、捻り上げられる。

「い……イタイッ!」
「大人しくしろ」

 くぐもった声は、聞いたことのない濁声だった。背筋がゾクリと寒くなり、辺りを見渡すが、先ほどまでいた他の通行人は姿を消している。

「あ……。あのっ」
「金出せよ」
「も、持ってません……!」

 恐ろしさで声が震える。すると、もう片方の腕を掴みあげられ、痛さに再び悲鳴を上げた。

「きゃあ!」
「大きな声を出すな。お前が王宮の侍女だってことは、分かってんだ。使いで街に来たんなら、金持ってるだろ。出せよ」
「な、なんで……」

 あまりの痛さに、涙が浮かぶ。
 濁声の男は、あの青年のように黒尽くめの恰好をしていたが、受ける印象は正反対だ。埃まみれの薄汚い服は裾が破れており、そこから伸びた手は、爪が黒く変形していた。
 鼻から下を覆う布も、ボロキレだ。血走った眼に、不自然に伸びて絡まったボサボサの髪。ツンと鼻をつく嫌な匂いに、アリスは顔を顰める。

(い、嫌だ……!)

「おい。持ってないなら、このままお前を捕まえて、向こうに金を要求することもできるんだぞ。お前、王女殿下の侍女様らしいからなあ」
「やめてくださいっ!」
「なら、持ってる金置いてけよ。なら、この場で解放してやる」
「手……手を、離してもらわないと、お、お金が出せません」

 地図を持っていた手が、解放される。震える手でポケットをまさぐると、男の意識がそちらに向いたのか、もう片方の腕の力が緩んだ。その瞬間、アリスは渾身の力で、男の胸に思い切り頭突きした。
 男は胸に受けた衝撃に咳き込みながら、アリスの腕を離す。アリスは震える足を奮い立たせて、走り出した。

「てめえ! ふざけやがって!! 待ちやがれ!」

 男はすぐに体勢を整えると、アリスを追う。
 もう少しで通りが見えるというところで、頭に激痛が走った。男が、アリスの髪を思い切り引っ張ったのだ。

「嫌!」
「うるせえ!」
「うるさいのは、お前の方だよ。――クズが」

 冷たい声が聞こえたと思ったら、アリスの髪が軽くなった。その反動で、身体が投げ出され、地面に叩きつけられた。
 遠のく意識の中で見えたのは、背の高い後ろ姿で、その人の髪は、輝く銀髪だった。

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