次期国王は独占欲を我慢できない
なんだか視線を感じて、アリスが振り返ると、そこにはチラチラとアリスを見る女性がいた。
その顔に見覚えがある。昨日、ヴァレールに部屋の用意を頼まれていた人。そして、鍵を渡す際幽霊の話を教えてくれた人でもあった。
アリスが視線に気づいたことが背中を押したのか、女性が近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
手には朝食が乗ったトレーを持っている。
大人数が共に食事をするため、厨房のカウンターから自分で食事を受け取ることになっていた。
アリスが、さてどこに座ろうかと見回していた時に、その視線に気づいたのである。
ちらほらと空いている席は見られたが、こういうものは暗黙のルールがあるのかもしれない。躊躇していたところで話しかけられたので、アリスは内心ホッとした。
「こっちで一緒にどう?」
「あ、はい。ありがとうございます」
誘われるがまま席につくと、女性は堰を切ったように話し出した。
「ねえ、昨日は大丈夫だった? おかしなことはなかった? 随分すっきりとした顔をしているけれど、もしかして結構平気な人?」
「え……ええと、なにがですか?」
さすがに面食らってのけ反ると、相手もそれに気づいたようで苦笑する。
「ごめんなさい。私、マリアよ。マリア・ボナール。貿易業をしているボナール社の娘。あなたは?」
「あ、アリス・フォンタニエです。父は元男爵で……爵位は今兄が継承しています」
「男爵家なの? ……そう。騎士訓練所に貴族様が配属されるなんて、珍しいわね」
「そうなんですか?」
「私が知る限りでは、ね。まあ、ここでは地位なんてあまり関係ないんだけど。それで、幽霊よ。なにもなかったの?」
先ほどから聞かれていたのは、幽霊が出るという部屋のことらしい。やっとそれに気づいて、アリスも笑みをこぼした。
結局、物音がすると言っていたのは幽霊などではなく、宿舎からの脱走経路だったからなのだが、それを話すのは気が引けた。本来なら大声を出してでも、あの黒尽くめの男の脱走を止めるべきだったのだ。ただ、彼の雰囲気が悪人とは違っていたのと、脱走したい気持ちがわかったため、ついそのまま逃がしてしまった。アリスもまた、実家にいる時厩舎の馬の様子が気になって、夜自室を抜け出したことがある。蔦の存在が便利だと気づいたのは、その頃だ。なにしろ、梯子が常にかけられているようなもので、出ていくこともだが、誰にも知られずに部屋に戻ることも可能だったのだ。そんな過去を思い出し、思わず助言してしまったわけで、そうなるとアリスは共犯者である。
さて、どう答えよう?
しばし考えて、アリスは口を開いた。
「私、実は追い払ったんです」
間違ってはいない。話し合いの結果、部屋から出ていってもらったのだから。ただ、相手は幽霊ではなくて人間だったけれど。
マリアは驚いて目を見開いている。
「なんですって!? アリス、あなたそんなことができるの?」
「ええ、実は……。話せばわかる相手で、助かりました。もう来ないそうですよ」
「えええ! すごいわね。追い出しただけではなく、そんな説得までできたなんて!」
マリアはすっかりアリスの話を信じ、尊敬のまなざしを向けている。なおも話を聞きたそうにしていたが、食堂の鐘が鳴る。どうやら、食事の時間は終わりのようだ。皆、席から立ち上がり、トレーを片付け始めた。
アリスも空いた食器を重ね、トレーを持つ。話をしていて充分に味わえなかったが、さすがは王宮の食事。温かいスープも柔らかなパンも、みずみずしいフルーツもとても美味しかった。これはお昼ご飯も期待がもてそうだ。
「ねえ、アリス。あなたってとても面白いのね。また話をしましょう」
返事をしながら、また面白いって言われた――と、アリスは思った。
そんな風に言われたのは、初めてだった。
実家で、家族や使用人たちに可愛い可愛いと言われ続けたアリスは、小さな頃、本当に自分が可愛いのだと思っていた。本当の美というものを具現化した存在と出会うまでは。あの時の衝撃といったらなかった。それからは、自分の容姿を過信することはなくなった。
今思えば、どうしてあの頃周りに言われるがままに、自分を超絶美少女だと思っていたのか不思議でならない。
髪も瞳も平凡な茶色で、鼻は低くもなく高くもない。少し口角が上がった唇はお気に入りだが、だからといって特徴的というわけでもない。目も鼻も口もバランスよく配置されている……と思うが、人の目を惹くようなものでもない。自分の容姿の平凡さに気づいたのが幼少期で良かったと、今では心からそう思う。それでもとにかく可愛いと言い続けた家族は、所謂身内贔屓というものだろう。そんな環境で育ってきたものだから、「面白い」という言葉がとても新鮮だった。
「ええ、是非」
笑顔で応えると、マリアは「仕事のことでわからないことがあったら、なんでも言って」とまで言ってくれた。
配属を発表された時、周りの反応から少し身構えていたのだが、先輩の印象もとても良い。アリスにとって幸先の良いスタートであった。
* * *
騎士訓練所での仕事は、主に洗濯や掃除、そしてたまに出るけが人の介抱などであった。
「あとは、訓練で破れたり切れたりした服を直したり……そんなところかしら」
結局、仕事は年が近いとの理由で、マリアが教えてくれることになった。
マリアは三年前から王宮に勤めているそうだが、ここ二年は新人が入った来なかったと言うのだ。
「まあ、仕事がキツイし、ここを嫌がる人もいるから、仕方ないわね」
ため息交じりに言うのは、理由がある。
どうも、この配属には所謂口利きが相当絡んでいるらしく、有力者の子供たちはほぼ希望通りの仕事に就けるらしい。
「勿論、全員じゃないわよ。希望通りの部署に行けるなんて本当に一握りだけれどね」
だから、アリスの配属が発表された時、あんなに周りがざわついたのだ。
口を利いてくれる有力者もいない娘が今年は入ってきたと、そんな印象を植え付けたわけだ。
だが、マリアの説明を聞いている限り、騎士訓練所の仕事はそんなに大変とは思えなかった。そう言うと、マリアは「とんでもない!」と首を横に振った。
「洗濯ひとつ取っても他とは違うわ。汚れ方が半端じゃないし、室内にも土汚れを運んでくるから、掃除も大変なの。たまに大怪我する人もいて、直視できず倒れる子もいるわ」
脅すように眉間に皺を寄せて、低い声で忠告するが、やっぱりアリスにはピンとこなかった。
「それって出産のために部屋を清潔にしたり、藁で寝床を整えたり、苦痛にバタつくのをなだめたり、出てきた子を引っ張って全身汚れたりすることより、大変なのかしら」
「アリスって、助産婦の資格もあるの!?」
「ううん。馬の話」
「びっくりした……。それにしても、貴族の出なのにそういうこともしてきたのね。騎士訓練所には馬もいるのよ。扱いに慣れてるなら、部署長も喜ぶわ」
「馬がいるの!?」
アリスは嬉しさのあまり、大きな声をあげる。
実家を離れた時、なによりも馬や領地の動物たちと別れることが悲しかった。
人間同士なら、言葉を交わし再会を誓えるが、動物たちとはそうはいかない。毎日会って、そして触れることで信頼を得て来たのだ。突然離れてしまって、あの子たちは傷ついていないか、そう思うと心が千切れてしまいそうだった。
「そういうものかしらねぇ……。でも、それなら益々うちは合うと思うわ。騎士団には騎馬隊もいるから、馬もいるのよ。あまり、好んで近づくメイドはいないけどね」
「え~、もったいない……可愛いのに」
「女の子たちは、他に興味があるのよ」
「他?」
「そう。ラウル・アルドワン殿下よ」
「へぇ……」
「なによ、あまり興味ない? ほんと面白い子ね」
どうやら、馬の話をしていた時に比べて、表情が乏しかったようだ。マリアは楽しそうに笑い声をあげた。
ラウル殿下のことなら、アリスも知っている。
実物は知らないが、姿絵を見た印象は、とにかく綺麗な人だというものだった。
きらめく銀髪に、輝く紫の瞳。少し冷たさを感じるその表情は、まるで良くできた人形のようだと思ったものだった。
そうか、王宮ということは、勿論そのラウル殿下も住んでいるということだ。
実際はどんなお方なのだろう。やはり姿見のように、冷たい高慢な人なのだろうか。世間に出回っている姿見は、かなり美化して描かれたものだったりして――そこは興味がある。
「本当に素敵な方よ。勿論、私たちにお言葉をかけることなど、滅多にないのだけれど……」
「えっ。ここに来ることもあるんですか?」
「そうよ。殿下も剣術や馬術を訓練なさるから。毎日ではないけれど、時々いらっしゃるわ」
確かに、いずれ国王へとなられるお方だ。彼を守るため、国を守るために騎士は存在するが、それでも万が一を考えると、ご自身も鍛えておかなければならないのだろう。
マリアが言いたいのは、苦手な馬の世話をしに厩舎にいるより、殿下が見れる訓練所の仕事の方が、メイドが喜ぶ、ということのようだった。
(それは、私には当てはまらないけどな~)
アリスの心は、すっかり厩舎にある。
領地にいたのは、馬車を引いたり、農耕馬として働く馬だった。馬車を引く馬も、農耕場も、身体の大きさや特徴、筋肉の付き方が違う。騎馬隊の馬は一体どんな馬だろう。楽しみで仕方がなかった。
* * *
マリアの言う通り、掃除も洗濯も思った以上に時間がかかり、コツを掴むまでは疲れそうだが、それでも二週間もすると、だいぶ慣れてきた。
朝起きて、窓を全開にすると、アリスは大きく伸びをした。
これが、ここに来て毎朝の日課になった。
見慣れた田舎の風景ではなく、ここから見えるのは、たくさんの建物、そして手入れされた庭だ。馬車が通る石畳は、朝露に濡れて朝日に光っている。
大きく息を吸い、手を組んで腕をぐんと伸ばすと、少し顔を歪めた。
普段使わない筋肉を使ったからか、少し二の腕が痛む。だが、それも心地よい痛みだった。
メイド仲間には、ラウル殿下以外にも騎士団の中にお目当てがいる者もいて、怪我の治療や破れた服を繕うのは、彼女たちがやりたがる。自然と、アリスは裏方にまわるようになっていた。そんなものだから、働き始めて二週間、騎士団の人たちと顔を合わせることは滅多にない。噂のラウル殿下も五度ほどやって来たらしいのだが、チラリとも見ることはなかった。
念願の厩舎の仕事も少しずつ増えて、毎日が充実していた。
それでも、疲れが溜まっていたのだろう。いつもなら起きて準備している時間でも、アリスはまだ夢の中にいた。
コツン
なにかがぶつかる音に、眠っていたアリスの瞼がひくつく。
コツン
再び乾いた音が聞こえて、アリスの意識が浮上した。
ぼんやりと見えるのは、壁にかけたお仕着せ。
(なんだっけ……アレ)
うまく整理できず、ぼーっと見つめていると、三度『コツン』と音がした。
「あ! 仕事!」
王宮の宿舎にいることをようやく思い出して、慌てて飛び起きる。
急ぎすぎてベッドからずり落ちそうになりながら、なんとか下りると、窓を見た。
いつもよりも、陽の光が強い。部屋に差し込む日の光から、寝坊したことに気づき、焦ってお仕着せを掴んだ。五時に廊下の鐘が鳴らされるのだが、今日は全然気が付かなかった。
急いで着替えたアリスは、時間を確かめるべく、窓辺に向かった。
結露に少し曇った窓には、いくつかの小さな傷がついている。なんだろう、と思いながらも、勢いよく窓を開けた。
窓を開けると、そこからは王宮の時計台が見える。それはもうすぐ六時を指そうとしていた。それだけを確認すると、急いで窓を閉める。
なんとか朝食には間に合いそうだ。寝癖で絡まった髪をブラシで梳くと、後ろで簡単にまとめる。夜の内に用意しておいたタライの水で顔を洗うと、両手でパン、と頬を打った。
「よし、今日もお仕事頑張るぞ!」
バタン、と勢いよく閉められた窓の下で、四つめの小石を手にした青年が窓を見上げていた。
朝日にキラキラと輝く銀髪に、眩しそうに細められた紫の瞳。ここにメイドがいたならば、うっとりと見とれるほどの美貌の持ち主だった。
冷たさを感じるほど整った顔に、薄く笑みが浮かぶ。
「殿下、どうなさいました」
「いや。ちょっと恩を返しただけだよ」
「恩? 一体なんのことです?」
「なんでもない」
そう言いながらも、やはり唇は笑みを浮かべている。
これは、なんともお珍しい――側近の男はそう思いながら、主が石を投げた窓を見上げた。
その顔に見覚えがある。昨日、ヴァレールに部屋の用意を頼まれていた人。そして、鍵を渡す際幽霊の話を教えてくれた人でもあった。
アリスが視線に気づいたことが背中を押したのか、女性が近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
手には朝食が乗ったトレーを持っている。
大人数が共に食事をするため、厨房のカウンターから自分で食事を受け取ることになっていた。
アリスが、さてどこに座ろうかと見回していた時に、その視線に気づいたのである。
ちらほらと空いている席は見られたが、こういうものは暗黙のルールがあるのかもしれない。躊躇していたところで話しかけられたので、アリスは内心ホッとした。
「こっちで一緒にどう?」
「あ、はい。ありがとうございます」
誘われるがまま席につくと、女性は堰を切ったように話し出した。
「ねえ、昨日は大丈夫だった? おかしなことはなかった? 随分すっきりとした顔をしているけれど、もしかして結構平気な人?」
「え……ええと、なにがですか?」
さすがに面食らってのけ反ると、相手もそれに気づいたようで苦笑する。
「ごめんなさい。私、マリアよ。マリア・ボナール。貿易業をしているボナール社の娘。あなたは?」
「あ、アリス・フォンタニエです。父は元男爵で……爵位は今兄が継承しています」
「男爵家なの? ……そう。騎士訓練所に貴族様が配属されるなんて、珍しいわね」
「そうなんですか?」
「私が知る限りでは、ね。まあ、ここでは地位なんてあまり関係ないんだけど。それで、幽霊よ。なにもなかったの?」
先ほどから聞かれていたのは、幽霊が出るという部屋のことらしい。やっとそれに気づいて、アリスも笑みをこぼした。
結局、物音がすると言っていたのは幽霊などではなく、宿舎からの脱走経路だったからなのだが、それを話すのは気が引けた。本来なら大声を出してでも、あの黒尽くめの男の脱走を止めるべきだったのだ。ただ、彼の雰囲気が悪人とは違っていたのと、脱走したい気持ちがわかったため、ついそのまま逃がしてしまった。アリスもまた、実家にいる時厩舎の馬の様子が気になって、夜自室を抜け出したことがある。蔦の存在が便利だと気づいたのは、その頃だ。なにしろ、梯子が常にかけられているようなもので、出ていくこともだが、誰にも知られずに部屋に戻ることも可能だったのだ。そんな過去を思い出し、思わず助言してしまったわけで、そうなるとアリスは共犯者である。
さて、どう答えよう?
しばし考えて、アリスは口を開いた。
「私、実は追い払ったんです」
間違ってはいない。話し合いの結果、部屋から出ていってもらったのだから。ただ、相手は幽霊ではなくて人間だったけれど。
マリアは驚いて目を見開いている。
「なんですって!? アリス、あなたそんなことができるの?」
「ええ、実は……。話せばわかる相手で、助かりました。もう来ないそうですよ」
「えええ! すごいわね。追い出しただけではなく、そんな説得までできたなんて!」
マリアはすっかりアリスの話を信じ、尊敬のまなざしを向けている。なおも話を聞きたそうにしていたが、食堂の鐘が鳴る。どうやら、食事の時間は終わりのようだ。皆、席から立ち上がり、トレーを片付け始めた。
アリスも空いた食器を重ね、トレーを持つ。話をしていて充分に味わえなかったが、さすがは王宮の食事。温かいスープも柔らかなパンも、みずみずしいフルーツもとても美味しかった。これはお昼ご飯も期待がもてそうだ。
「ねえ、アリス。あなたってとても面白いのね。また話をしましょう」
返事をしながら、また面白いって言われた――と、アリスは思った。
そんな風に言われたのは、初めてだった。
実家で、家族や使用人たちに可愛い可愛いと言われ続けたアリスは、小さな頃、本当に自分が可愛いのだと思っていた。本当の美というものを具現化した存在と出会うまでは。あの時の衝撃といったらなかった。それからは、自分の容姿を過信することはなくなった。
今思えば、どうしてあの頃周りに言われるがままに、自分を超絶美少女だと思っていたのか不思議でならない。
髪も瞳も平凡な茶色で、鼻は低くもなく高くもない。少し口角が上がった唇はお気に入りだが、だからといって特徴的というわけでもない。目も鼻も口もバランスよく配置されている……と思うが、人の目を惹くようなものでもない。自分の容姿の平凡さに気づいたのが幼少期で良かったと、今では心からそう思う。それでもとにかく可愛いと言い続けた家族は、所謂身内贔屓というものだろう。そんな環境で育ってきたものだから、「面白い」という言葉がとても新鮮だった。
「ええ、是非」
笑顔で応えると、マリアは「仕事のことでわからないことがあったら、なんでも言って」とまで言ってくれた。
配属を発表された時、周りの反応から少し身構えていたのだが、先輩の印象もとても良い。アリスにとって幸先の良いスタートであった。
* * *
騎士訓練所での仕事は、主に洗濯や掃除、そしてたまに出るけが人の介抱などであった。
「あとは、訓練で破れたり切れたりした服を直したり……そんなところかしら」
結局、仕事は年が近いとの理由で、マリアが教えてくれることになった。
マリアは三年前から王宮に勤めているそうだが、ここ二年は新人が入った来なかったと言うのだ。
「まあ、仕事がキツイし、ここを嫌がる人もいるから、仕方ないわね」
ため息交じりに言うのは、理由がある。
どうも、この配属には所謂口利きが相当絡んでいるらしく、有力者の子供たちはほぼ希望通りの仕事に就けるらしい。
「勿論、全員じゃないわよ。希望通りの部署に行けるなんて本当に一握りだけれどね」
だから、アリスの配属が発表された時、あんなに周りがざわついたのだ。
口を利いてくれる有力者もいない娘が今年は入ってきたと、そんな印象を植え付けたわけだ。
だが、マリアの説明を聞いている限り、騎士訓練所の仕事はそんなに大変とは思えなかった。そう言うと、マリアは「とんでもない!」と首を横に振った。
「洗濯ひとつ取っても他とは違うわ。汚れ方が半端じゃないし、室内にも土汚れを運んでくるから、掃除も大変なの。たまに大怪我する人もいて、直視できず倒れる子もいるわ」
脅すように眉間に皺を寄せて、低い声で忠告するが、やっぱりアリスにはピンとこなかった。
「それって出産のために部屋を清潔にしたり、藁で寝床を整えたり、苦痛にバタつくのをなだめたり、出てきた子を引っ張って全身汚れたりすることより、大変なのかしら」
「アリスって、助産婦の資格もあるの!?」
「ううん。馬の話」
「びっくりした……。それにしても、貴族の出なのにそういうこともしてきたのね。騎士訓練所には馬もいるのよ。扱いに慣れてるなら、部署長も喜ぶわ」
「馬がいるの!?」
アリスは嬉しさのあまり、大きな声をあげる。
実家を離れた時、なによりも馬や領地の動物たちと別れることが悲しかった。
人間同士なら、言葉を交わし再会を誓えるが、動物たちとはそうはいかない。毎日会って、そして触れることで信頼を得て来たのだ。突然離れてしまって、あの子たちは傷ついていないか、そう思うと心が千切れてしまいそうだった。
「そういうものかしらねぇ……。でも、それなら益々うちは合うと思うわ。騎士団には騎馬隊もいるから、馬もいるのよ。あまり、好んで近づくメイドはいないけどね」
「え~、もったいない……可愛いのに」
「女の子たちは、他に興味があるのよ」
「他?」
「そう。ラウル・アルドワン殿下よ」
「へぇ……」
「なによ、あまり興味ない? ほんと面白い子ね」
どうやら、馬の話をしていた時に比べて、表情が乏しかったようだ。マリアは楽しそうに笑い声をあげた。
ラウル殿下のことなら、アリスも知っている。
実物は知らないが、姿絵を見た印象は、とにかく綺麗な人だというものだった。
きらめく銀髪に、輝く紫の瞳。少し冷たさを感じるその表情は、まるで良くできた人形のようだと思ったものだった。
そうか、王宮ということは、勿論そのラウル殿下も住んでいるということだ。
実際はどんなお方なのだろう。やはり姿見のように、冷たい高慢な人なのだろうか。世間に出回っている姿見は、かなり美化して描かれたものだったりして――そこは興味がある。
「本当に素敵な方よ。勿論、私たちにお言葉をかけることなど、滅多にないのだけれど……」
「えっ。ここに来ることもあるんですか?」
「そうよ。殿下も剣術や馬術を訓練なさるから。毎日ではないけれど、時々いらっしゃるわ」
確かに、いずれ国王へとなられるお方だ。彼を守るため、国を守るために騎士は存在するが、それでも万が一を考えると、ご自身も鍛えておかなければならないのだろう。
マリアが言いたいのは、苦手な馬の世話をしに厩舎にいるより、殿下が見れる訓練所の仕事の方が、メイドが喜ぶ、ということのようだった。
(それは、私には当てはまらないけどな~)
アリスの心は、すっかり厩舎にある。
領地にいたのは、馬車を引いたり、農耕馬として働く馬だった。馬車を引く馬も、農耕場も、身体の大きさや特徴、筋肉の付き方が違う。騎馬隊の馬は一体どんな馬だろう。楽しみで仕方がなかった。
* * *
マリアの言う通り、掃除も洗濯も思った以上に時間がかかり、コツを掴むまでは疲れそうだが、それでも二週間もすると、だいぶ慣れてきた。
朝起きて、窓を全開にすると、アリスは大きく伸びをした。
これが、ここに来て毎朝の日課になった。
見慣れた田舎の風景ではなく、ここから見えるのは、たくさんの建物、そして手入れされた庭だ。馬車が通る石畳は、朝露に濡れて朝日に光っている。
大きく息を吸い、手を組んで腕をぐんと伸ばすと、少し顔を歪めた。
普段使わない筋肉を使ったからか、少し二の腕が痛む。だが、それも心地よい痛みだった。
メイド仲間には、ラウル殿下以外にも騎士団の中にお目当てがいる者もいて、怪我の治療や破れた服を繕うのは、彼女たちがやりたがる。自然と、アリスは裏方にまわるようになっていた。そんなものだから、働き始めて二週間、騎士団の人たちと顔を合わせることは滅多にない。噂のラウル殿下も五度ほどやって来たらしいのだが、チラリとも見ることはなかった。
念願の厩舎の仕事も少しずつ増えて、毎日が充実していた。
それでも、疲れが溜まっていたのだろう。いつもなら起きて準備している時間でも、アリスはまだ夢の中にいた。
コツン
なにかがぶつかる音に、眠っていたアリスの瞼がひくつく。
コツン
再び乾いた音が聞こえて、アリスの意識が浮上した。
ぼんやりと見えるのは、壁にかけたお仕着せ。
(なんだっけ……アレ)
うまく整理できず、ぼーっと見つめていると、三度『コツン』と音がした。
「あ! 仕事!」
王宮の宿舎にいることをようやく思い出して、慌てて飛び起きる。
急ぎすぎてベッドからずり落ちそうになりながら、なんとか下りると、窓を見た。
いつもよりも、陽の光が強い。部屋に差し込む日の光から、寝坊したことに気づき、焦ってお仕着せを掴んだ。五時に廊下の鐘が鳴らされるのだが、今日は全然気が付かなかった。
急いで着替えたアリスは、時間を確かめるべく、窓辺に向かった。
結露に少し曇った窓には、いくつかの小さな傷がついている。なんだろう、と思いながらも、勢いよく窓を開けた。
窓を開けると、そこからは王宮の時計台が見える。それはもうすぐ六時を指そうとしていた。それだけを確認すると、急いで窓を閉める。
なんとか朝食には間に合いそうだ。寝癖で絡まった髪をブラシで梳くと、後ろで簡単にまとめる。夜の内に用意しておいたタライの水で顔を洗うと、両手でパン、と頬を打った。
「よし、今日もお仕事頑張るぞ!」
バタン、と勢いよく閉められた窓の下で、四つめの小石を手にした青年が窓を見上げていた。
朝日にキラキラと輝く銀髪に、眩しそうに細められた紫の瞳。ここにメイドがいたならば、うっとりと見とれるほどの美貌の持ち主だった。
冷たさを感じるほど整った顔に、薄く笑みが浮かぶ。
「殿下、どうなさいました」
「いや。ちょっと恩を返しただけだよ」
「恩? 一体なんのことです?」
「なんでもない」
そう言いながらも、やはり唇は笑みを浮かべている。
これは、なんともお珍しい――側近の男はそう思いながら、主が石を投げた窓を見上げた。