次期国王は独占欲を我慢できない
 舞踏会の日、ベアトリスは朝から張り切っていた。
 早朝に起きた彼女は、朝から湯浴みをし、全身のオイルマッサージでむくみを取り、髪にもオイルをなじませた。
 朝食もまた、ダイニングルームに行かずに軽いものを部屋まで運ばせ、時間をかけてゆっくりと食べる。
 それらに付き合うアリスたち侍女もまた、早朝から忙しくしていた。ベアトリスの指示で動く他にも、舞踏会のための準備もしなくてはならない。
 ドレスの最終確認に、それに合わせた宝石を揃えること。これもまた、ベアトリスの気分で変わるかもしれない為、複数用意した。靴も、ヒールの高いものと低めのもの。香水も複数揃えると、ベアトリスの寝室は鏡台やチェストいっぱいに、物が並べられた。
 全ての準備が整うと、食後休んでいたベアトリスがやってきた。

「では、着替えるわ」
「えっ。まだ早いのではないですか?」

 夕方五時開始の舞踏会だが、人々は早めに王宮にやって来る。一時間前には大方揃い、サロンで軽食をつつき、談笑しながら待つのだが、それでもまだ時刻は正午だ。

「着替えや化粧に時間がかかるし、ドレスと靴に慣れておきたいの。本番で転ぶなんて嫌だもの」

 ドレスは、今まで好んで着ていた裾が均等に広がるものではなく、後ろにボリュームのあるデザインだ。しかも、大柄なマルセルに合わせ、ベアトリスは高いヒールの靴を選んだ。

「でも……おなかが空きませんか?お昼はお召しあがりにならないのですか?」
「ドキドキしてそれどころではないわ」
「では、お着替えの後でもつまめるよう、サンドウィッチを作らせましょうか?」
「そうね、お願い。……あ、クッキーもつけて!」
「かしこまりました」

 ドレスを着て、いつもより高い靴を履いたベアトリスは、ぐっと大人っぽくなった。そこに生来の気品が加わり、近寄りがたささえ感じる。そう伝えると、色味を抑えた化粧を施されながらも、ベアトリスは目を細めた。
 マルセルに対する恋心が、ベアトリスをこうも変えたのだ。それは凄い力だ。
 アリスは、チクリと胸が痛むのを感じた。
 結局、舞踏会に出たいと言えなかった。
 親しく接してくれてはいても、ベアトリスは王族でありアリスの主人だ。個人的な感情で、一度約束したことを反故になどできない。だが、こうして舞踏会に向けて蝶のように艶やかに姿を変えるベアトリスを見ていると、どうしても考えてしまう。

「さあ、できましたわ。ベアトリス様、いかがでしょう?」

 皆の前で、ベアトリスが軽やかにまわって見せる。その動きに合わせ、グラデーションのスカートがひらりと舞う。

「素敵ですわ!」
「そうね、とても気に入ったわ」

 だが、全て整えても時刻はまだ二時を過ぎたばかりだ。やはり、準備をするには早かったのではないだろうか――そうアリスが考えていると、ベアトリスがパンッと手のひらを打ち鳴らした。

「さあ!じゃあ、皆も準備するわよ!」
「はい!ほら、アリスも!」
「え?え?え?」

 状況が把握できないアリスがポカントしていると、エリーズがベアトリスの衣装部屋からドレスを持ってきた。
 淡く明るい黄色のふんわりとした可愛らしいドレスだ。

「わたくしが持っていたドレスを、急遽手直ししてもらったの。これは、アリス。あなたにあげるわ」
「えっ?ですが、私は控室でのお世話を……」
「わたくし、もう準備はできていてよ?これ以上の世話は不要だわ。今回の舞踏会は、わたくしの侍女全員参加して楽しんで欲しいの」

 そうは言っても、ベアトリスからドレスをもらう理由などない。躊躇していると、ベアトリスは畳み掛けるように言葉を重ねた。

「あなたを危険な目に遭わせてしまったもの。わたくしの侍女の安全は、わたくしの責任よ。お詫びとして、受け取って欲しいの」
「さぁ、脱いで脱いで!」

 戸惑っているアリスを、エリーズたちが寄ってたかって脱がしにかかる。

「えっ、ちょっと、わ!くすぐったい!」

 あっという間に下着姿にされたアリスは、恥ずかしさに身体を縮こまらせる。

「アリス。あなた、今日の舞踏会は絶対に出なくては。ね?」
「……ありがとうございます」

 アリスが頷いたのを合図に、エリーズたちがテキパキと手を動かす。
 ドレスが着せられ、顔の上をパフや筆が動き廻り、アリスは目を閉じてくすぐったさに耐えた。

「アリス、これ使わせてもらうわね」

 エリーズの手には、マノンから貰ったリボンと、ラウルから贈られた髪留めがあった。

「ちょっとお部屋から拝借してきましたの。急いでいたものだから、ごめんなさいね。でもアリスの準備が終わらないと、エリーズたちも自分の準備ができないもの」

 悪びれた様子もなく、ベアトリスが言う。
 エリーズはアリスの髪を丁寧に梳かすと、リボンを巻き込んで緩く編み込み始めた。

「本当は、アリスがベアトリス様のドレスにつけたような飾りにしようかと思ったのだけれど、アリスがどんな風に使うかわからなかったから、今日はこのままリボンとして使うわね」

 緩く編まれた髪は、アップにして後頭部にピンで止める。そこでリボンを蝶々結びにし、サイドの目立つ場所に髪留めをつけた。
 少し寂しい首元にもリボンを巻き、蝶々結びを作る。アリスは華やかな宝石を持たないため、苦肉の策であったが、可愛らしい雰囲気のドレスには華美になりすぎず、ピッタリだった。

「こちらのヒールの低い靴で良ければ、履いてくださる?リボンと髪留めが紫だから、合うと思いますわ」

 ベアトリスが選ばなかった、淡い紫の靴が目の前に差し出される。アリスはそれを、有難く受け取った。
 この髪留めをして、舞踏会に参加できる――! 興奮で胸が張り裂けそうだった。


 * * *


 煌めくシャンデリアに、むせ返るほどの華やかな香り、色とりどりの艶やかなドレス。
 まるでこの世とは想えないほどのきらびやかな空間に、アリスはキョロキョロと辺りを見渡した。

「アリス、もう。落ち着きなさいな」
「す、すみません」

 とは言ったものの、アリスにとってはこのような豪華な舞踏会は初めてなのだ。目にするなにもかもが目新しい。ついつい、あちこちに視線を泳がせてしまう。

「まったく……。もうすぐ王族の方々がいらっしゃるわよ?」

 先に大広間に通された着飾った貴族たちが、シンと静まり返った。中央の一番大きな扉が開いた。
 国王陛下が姿を見せると、人々はワッと沸き、自然と拍手が起きる。
 陛下の後には王妃が、そしてラウル王子殿下が姿を見せたところで、人々がざわめき出した。

「ラウル殿下のあれは一体……」
「どのような趣向なのかしら……」

 人々が戸惑うのも仕方がない。現れたラウルは、黒いカツラをかぶり、なんの飾りもない黒いマントをまとっていたのだ。
 皆が着飾っている中、それは異様にも見える。首を傾げる人もいる中で、アリスは高鳴る胸をなんとか押さえ、じっとラウルを見ていた。
 彼とのこれまでの思い出が、アリスの頭をよぎる。ラウルに驚いたサラが、アリスになにやら話しかけているが、アリスの耳にはなにも入ってこなかった。
 国王陛下の新年の挨拶のあと、王宮に招かれた演奏家が音楽を奏でる。舞踏会の始まりだ。
 最初は国王陛下と王妃が、皆の見守る中で踊る。曲が終わると、拍手が起き、広間の中心にパラパラと人々が出てきた。そんな中、注目は黒尽くめのラウルとベアトリスに集まる。ラウルが一体、誰をダンスに誘うのか。そして、ベアトリスは誰の誘いを受けるのか。人々は興味深く彼らの動向を見守っていた。
 好奇の視線の中、最初に動いたのはマルセルだった。
 ヒゲを綺麗に剃り、髪を撫で付け、たくさんの勲章をつけた正装で現れた彼は、その年齢をも深みのある魅力に変え、女性の視線を惹きつけていた。だが、彼が手を差し伸べたのはベアトリスだった。悔しそうに歯噛みする女性たちの前で、ベアトリスは堂々と手を預ける。
 そうなると、次なる興味はラウルだ。彼はぐるりと視線を巡らせると、なにかを見つけたように真っ直ぐ広間を突っ切って、広間の端までやって来た。

「アリス。踊っていただけますか?」

 悲鳴にも似たような落胆の声が、広間に広がる。
 一体相手は誰かと、人をかき分けるように覗き込む者もいた。

「はい」

 真っ直ぐ見つめられ、差し出された手に、はにかみながら自らの手を乗せる。すると、それを合図にしていたかのように演奏がスタートした。直ぐに引き寄せられ、腕の中に囲い込まれる。流れるようなステップでくるくるとまわると、周囲の人々のことなど視界から消えてしまった。

「アリス、とても似合うよ」
「ありがとう。まさか、この髪留めをつけることができるなんて、思わなかったわ」

 黒尽くめの格好だからか、アリスの口調もくだけたものになる。

「本当は直接渡したかったんだけどね」
「ごめんなさい。でも私、ちゃんと行ったのよ?」
「わかってる。わかってるよ」

 自然と笑みが溢れ、ふたりは楽しそうに笑った。
 誰も見たことのない、心からの笑顔で踊るラウルに、人々は驚く。
 やがて、演奏は周版に差し掛かると、ラウルはアリスの耳元で囁いた。

「――ねえ、アリス」
「……はい」

 ラウルの声色が変わり、アリスも神妙に返事を返す。

「俺はね、次のダンスも君と踊りたい。その次も、そのまた次も……ずっと君と踊り続けたいんだ」
「ラウル殿下……」

 国の全ての貴族や有力者が集まる新年の舞踏会で、未婚の王族がパートナーを変えずに踊るということは、大きな意味のあることだった。
 そんな中、バイオリンが繊細な音色の余韻を残し、演奏が終わった。人々は足を止める。

「ラウル殿下は、次にどなたと踊られるのかしら?」

 どこからともなくそんな声が聞こえ、再びラウルに注目が集まった。だが、彼はアリスの前から動く様子がない。それどころか、アリスをじっと見ると、徐に頭に手をやり、カツラを取った。続けて、マントを脱ぐ。シャンデリアの灯りが反射して煌めく銀髪と、いくつも勲章を下げた、金糸の輝く白い正装姿のラウルが現れた。
 広間に、ほぅ……とため息が広がる。

「アリス。この姿もまた、俺だ。この俺も、どうか受け入れて欲しい」
「ラウル殿下……」

 いつか姿絵で見た、まるで物語から出てきたそのままの姿で言われると、さすがに緊張する。
 差し伸べようとした手が震え、アリスは手をぎゅっと握り、深呼吸をした。
 すると、なんとラウルの横からもう一本にゅっと手が出てきた。

「えっ?」

 驚いてその手の持ち主を見ると、そこにいるのはマルセルだった。

「ぼ、僕も!」

 なぜかそこに、リュカも加わる。
 ラウルを挟んで、リュカ、マルセルからもダンスを申し込まれるという、おかしな事態になっていた。

「なぁ、アリス。まさか、この俺を表舞台に引き戻しておいて、自分は舞台を降りるなんてことは、考えてないよな?」

 マルセルがニヤリと笑う。

「ぼ、僕は!アリスはまだ世間を知らなすぎるし、特定の相手を選ぶのは早いと思う!」

 リュカが泣きそうな顔で訴える。

「私から、ひとつ質問があります」
「なんだい?」
「また、柿を一緒に収穫してくれますか?」
「勿論だよ!僕なんだってす――ぐはうっ」
「おめぇじゃねえよ」

 マルセルがリュカの口を塞ぎ、黙らせる。
 リュカはまだモゴモゴと超えにならない音を漏らしていたが、ラウルとアリスの耳には入らなかった。

「勿論。ただし、木の上に登るには俺だけだ」
「それなら、もう答えは決まっているわ!」

 アリスはパッとラウルの掌に自分の手を乗せると、そのままぎゅっと握りしめた。
 たまらずに、ラウルが手を引き、アリスを抱き寄せる。
 広間がワァツと歓声に包まれた。
 初めは悔しそうに見ていた人たちも、こうも見せつけられるとお手上げだ。なにしろ、国中の貴族たちの前で求婚するのは、現国王に続いてのことだ。中には、国王陛下の求婚を目撃した者もおり、苦笑している。

「音楽だ!さあ、演奏を!」

 マルセルが、まるで出撃命令を出すような大声を上げ、演奏家たちが慌てて曲を奏で始めた。
 まるでふたりを祝福するような明るい曲に、初めは気取って踊っていた人々からも、徐々に笑顔が漏れだす。
 音楽は鳴りやむことなく、ダンスは続いた。一体どれくらい踊っただろうか。その間、ラウルはアリスを離すことなく、踊り続けた。

「も、もう、足が限界です」

 息を切らしながら言うアリスを抱えるようにして、ラウルはバルコニーに出た。
 雪は止んでいるものの、キンと張りつめた冬の空気が、紅潮した頬に気持ちいい。
 ガラスを隔てた向こうでは、ダンスに興じる人々が楽しそうにしている。貴婦人の香水の匂いと、人々の熱気までが目に見えるようだ。
 片や、バルコニーを照らすのは丸く大きな月だけだ。楽し気な笑い声や音楽がすぐそこに聞こえるのに、なぜかとても静かに感じた。

「良かったよ。髪留めを受け取ってくれて。とても似合う」

 手渡すはずだったが、行き違いで会えず、結局マルセルに託すしかなかった。
 だが、本当は渡すものはもうひとつあった。けれども、それはマルセルとはいえども、託す気にはなれず、持ったまま戻ってしまった。

「あっ、お礼をまだ言ってませんでした。あの、ありがとうございます。これ、私本当にひと目で気に入っていて」
「うん。たまたま雑貨店に入る君を見かけたんだ。目を輝かせていたから、とても気に入ったんだろうと思っていた」
「ええ。これ……今までの私なら、選ばなかったと思うんですけれど……。この石の色が、殿下の瞳を思わせて、すごく気になったんです」

 思わぬ告白に、ラウルが顔をほころばせる。

「と、いうことは……アリスも俺を想ってくれてるっていうこと?」
「――はい。とても、好きです。名前も知らない人だったけれど、どんどん惹かれていって、殿下と重なって見え始めても、どっちがっていうのではなくなってしまって。私は、あなたが好きなんです。名前も、髪の色も、勿論肩書きも関係なく、あなたが、好きです」

 やっと、言えた。
 ようやく伝えられてホッとしたような、まだうまく伝えられていない不安のような感情が入り混じる。
 なにも言わないラウルの反応が気になって、顔を覗き込もうとすると、強い力であっという間に腕の中に閉じ込められた。

「――ありがとう。ありがとう、アリス。俺も君が大好きだよ」
「でも、私なにも差し上げられるものがなくて」

 ラウルが抱きしめていた腕を解くと、ポケットからなにかを取り出した。

「じゃあ、これを俺にくれる?」

 手のひらには、アリスが母ロクサーヌからもらった、お守りの指輪が乗っていた。

「あっ、これ……!殿下がもっていらしたのね?」
「そうだよ。俺が初めて君に気持ちを伝えたあの日、君が落として行ったんだ」
「良かった!これ、母からもらったお守りなんです」
「パートナーができるまでのお守り?」
「そうです!」
「なら、もうお役御免だ。俺にちょうだい」

 確かにそうだけれど、甥のレオンやリュカとお揃いのデザインだ。それを指摘すると、ラウルの瞳に妖しげな光が浮かんだ。

「じゃあ、いつか君が、俺だけの指輪をデザインしてくれる?」
「――はい」
「ありがとう。アリス――」

 ゆっくりを近づく神秘的な紫の瞳を、アリスはじっと見つめ返す。間近まで迫って、先ほど感じた妖しげな光は、月が映りこんだのだと気づいた次の瞬間、アリスの唇にラウルのそれが触れた。

「愛してる」
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