この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。【完】

届かなかった?(他)

 手が空を切った。こちらに向けられた指先にも触れられず。
 後ろから伸びてきた沢山の手によって、引き止められた。体の、服のあちらこちらを引っ張られる。

「ッ、待てッッ!!」
「危険ですッ!!殿下!!」

 縋るようにして叫んだ。だけれど、部下達の声も、手も己をその場に留める。
 アリサとアーベルが黒い沼のような影にトプンと小さな音をたてて、沈んでいく。

 沢山の小さな手に引き摺られて、引きずり込まれて、アーベルは泣き、アリサの瞳にもハッキリと恐怖の色が浮かんでいたのに。

 届かなかった。
 伸ばした手は、届かなかった。
 何の為にここに来た?
 何の為に部下を呼んだ?

「全ては、最悪の未来を回避する為に……」

 アリサとアーベルの危険ですら、
 ――必要な事だったとでも言うのか?

 彼女達に刃物を振りかぶっていた男を見て、血の気が引いた。生きた心地がしなかった。
 手を握りしめる。強く、強く。

 周辺にはハイデマリーが力尽きたように転がっている。息もあるようだし、目立った外傷もない。ただ、随分と無理をしたのか、普段は後宮でお高くとまっている彼女にしてはボロボロだった。既に治癒の人間が治療にあたっている。

 考えていたのは、一瞬の事だった。
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