私の中におっさん(魔王)がいる。~毛利の章~
第十九章・魔王
毛利は、刀についた血を懐紙で拭った。
雪村の体は重力によって地に戻され、魔王は捕らえる者を失って、そのまま浮いていた。
太陽のように上空で輝きながら、地面に伏し、死んだように眠るアジダハーカを照らしていた。
あの瞬間、雪村は僅かに笑んだ。
毛利の瞳には、それはひどく穏やかに映った。
首と胴体が離れるその刹那、雪村の心に浮かんだのは、誰だったのだろうか――毛利はぼんやりとそんな事を思った。
「終わったな」
足を引き摺りながら、月鵬に支えられ、花野井がやってきた。
「その傷……」
目線を落とした毛利に、花野井は明るく声を上げた。
「ああ。平気だ! こんなもん、すぐに治る」
「まったく!」
月鵬が呆れた声音を出してしゃがみ込んだので、支えを失った花野井は、ドシャっと尻餅をついた。
「痛て! お前な、もっと優しくしろよ!」
花野井の文句を無視して、突然月鵬は花野井の袴の中に手を突っ込んだ。
「おまっ! 何だ!?」
慌てふためく花野井を余所に、冷静そのものの月鵬は、酒瓶を取り出した。
酒瓶は幾つかに纏められて、紐で腰にくくりつけられていたが、その全てが割れてしまっていた。
「ダメか……ちょっと探してきます」
月鵬が唖然とする花野井に告げて、立ち上がろうとしたとき、その背後から何かが飛んできた。
月鵬は、ハッとなって振り返り、その物体を受け止めた。
「これって、酒瓶……」
「アルコール度数、いっちばん高いやつ!」
声高な声に顔を上げると、黒田が片手を挙げていた。
月鵬は軽く会釈して、酒瓶の蓋を取り、中身を手にかけた。
そしてしゃがみ込み、花野井の傷口から飛び出している骨を、強引に元の位置に戻した。
「痛ってえ!」
「我慢してください!」
悲鳴を上げた花野井に、ぴしゃりと言って、今度は金糸髪を一本引き抜き、酒をかけた。
その髪は、うねうねと動き、花野井の皮膚を貫いて、傷口を縫いつけた。
「おい、もっと優しくやってくれ!」
花野井の哀願を無視し、月鵬はもう片方の足も同じようにして縫いつける。
「これで、しばらく安静にしていれば勝手に治りますね」
「お前な、人をなんだと思ってんだ……治るけどよ」
しょんぼりとした花野井に一瞥だけくれて、月鵬は振り返った。
「黒田様も、縫ってさしあげましょうか?」
「……いや。ぼくは遠慮しておく」
声を飛ばすと、黒田は引きつった笑みを返した。頬から流れる血を、ゴシッと強く拭って歩き出す。
皆、安堵から表情は明るいが、満身創痍だ。
花野井と翼、コウは言わずもがな、毛利も黒田も月鵬も原も、全身が傷だらけだった。
毛利は辺りを見回した。
周囲には、壁にもたれかかったり、地面に蹲ったりして、怪我を負った兵士が幾人も転がっていた。
「怪我をした者は医療施設へ運ぶ。地下街へ入れ。俺は魔王(ゆり)を取り戻しに行く」
「ちょっと待て、大丈夫か?」
戦いの衝撃で、地下街が地盤沈下して崩れやしないか――花野井は若干の不安に襲われ、毛利に尋ねたが、毛利はきっぱりと言い切った。
「ああ」
「本当に?」
断言され、花野井は納得したが、反対に黒田が不信な声を上げた。
なんの説明もなかった事が不信へと繋がったのだ。
そこに、明朗な声が届く。
「大丈夫ですよ。地盤は厚いですし、地下の医療施設は、街から少し出たところにありますから」
「随分、遅い登場じゃんか。柳」
壊れた外壁からひょっこりと現れた柳に、黒田は皮肉を投げて嘲弄した。
柳は一瞬だけ驚いたように丸い目を向けて、口元だけで笑んでみせる。
「僕は僕の仕事がありましたからね」
「あっそ」
興味なく言って、顎を跳ね上げた黒田の背後に毛利が降りてきた。
柳と話している間に、魔王――ゆりを、その手に取り戻してきたのだ。
黒田は、魔王を見つめながら眉を下げ、口を僅かに尖らせた。
「なんだ? やらぬぞ」
「違うよ!」
「違うのか?」
毛利は能面のような顔を僅かに怪訝に歪めた。
魔王を欲しがっていたのではないのだろうか? 毛利はそう思ったが、黒田は問いには答えなかった。
そのまま、踵を返して歩き出そうとする。
「どこに行く?」
「翼のとこだよ。決まってんでしょ」
牽制した毛利に、振向きもせずに黒田は答えた。
声音では嘲りが混じったようにしたが、心中では落胆があった。
三条雪村が死んだ今、黒田が考えていた案は実行に移せなくなった。
ゆりを助けられない事が、黒田をどこか気落ちした気分にさせていた。
元々、可能性の問題だった。確信はなかったし、こうなったのなら、こうなったで、しょうがない――黒田は自分に言い聞かせるように心中で言葉を繰り返した。
その時だ。
背後から数人のどよめきが聞こえた。
振り返ると同時に、魔王は輝きを増し、矢が放たれるように上空へと跳び上がった。
「なに!?」
黒田が動揺して叫んだ、その瞬間。
魔王が白く滲んだ光りを放ちながら回転し始め、光は、一瞬で町全土を覆うほどに広がった。
「うわ!」
「ぐっ!」
「きゃあ!」
悲鳴が上がり、光が届く範囲にいた全ての者が、力を失い崩れ落ちた。
この感覚は――!
毛利は地面に伏しながら、身に覚えのある感覚に悶えた。
そこに、竜影が通過した。
バサバサと羽音を響かせ、強風を送りつけている、何かがすぐ傍にいる。
脱力する体に逆らい、無理に顔を上げ、毛利はそれを見据えた。
堂々たる姿で滞空していたのは、紛れもなくアジダハーカだった。
(――では、まさか!?)
その姿を見たとき、毛利は自分の過ちを直感した。