私の中におっさん(魔王)がいる。~雪村の章~
「雪村くんだって、あんなに苦しむ事はない。私さえ、死ねば全て解決するのに……でも、雪村くんには出来ないだろうな」
ふと笑んで、ゆりはスカートのポケットを弄った。ふらふらと歩き、大きな岩に背をもたれかける。すっかり細くなってしまった月を仰ぎ見た。
「今日も、月がキレイだなぁ……」
ぽつりと呟いて、ゆりは握り締めたそれを、ポケットから取り出した。
それは、小さなナイフだった。
ゆりは五日前、雪村に告げに行く前に、そのナイフを手にしていた。たまたま、台所に出してあった果物ナイフだった。
「とうとう、返せなかったな」
哀しげに言って、折りたたみ式のそれを立たせた。
喉の奥が真綿を詰め込まれたように、つっかえる。それを飲み込みたくて、ゆりは大きく息を吸い込んだ。
「ああ……ヤバイな」
泣き出しそうになって、ゆりはわざと笑った。へへっと笑って、自分の喉下にナイフを翳した。
「……怖い、な」
震える手に力を込める。ゆりの目から大粒の涙が溢れ出した。
「……ごめんね。雪村くん」
ゆりはぎゅっと目を瞑って、ナイフを自分に向って振り翳した。その瞬間、
「何やってんだ!」
甲高い悲鳴が上がって、ゆりの手首に石が直撃した。ゆりはナイフを落とし、ナイフは岩に当たって、高い金属音を響かせ地面を跳ねた。
驚いて目を開けたゆりに、張り手が飛んできた。頬を衝撃が走り、じんじんとした熱さが頬を包む。目の前には、結がいた。
怒りと興奮で顔を歪め、肩で息する結を、ゆりは呆然と見つめる。
「結……」
呟いたゆりを、結は全力で抱きしめた。
「バカなことするな! ゆんちゃんは、死んじゃダメなんだ!」
「だけど……このままじゃ、捕まった一族の人死んじゃうんでしょ?」
「だからって、なんでゆんちゃんが死ぬんだ!」
だって、とゆりは泣きそうになるのを堪えた。
「私の命で、一族の人が助かるんだよ。家族を助けたくないの?」
「ゆんちゃんだって、もう家族だろう!」
結は勢い良く身体を離して、ゆりを強い瞳で見据えた。
「なんでみんなが犠牲になってくれって言わないと思うんだ!? もうみんな、ゆんちゃんのこと一族の仲間だって、家族だって認めてるからだろ! そうじゃなかったら、みんなとっくにゆんちゃんのこと、殺してる! 主の彼女だって関係ない! ワタシ達はそんなに甘い連中じゃない!」
結は捲くし立てるように続ける。
「知衣やナガだって、感心してたぞ! あの状況で一族の事心配してくれたって、自分だけ逃げる事も出来たのにって! 何より――」
結はいったん言葉を詰まらせた。そして呼吸を整えて、笑った。
「みんな言ってる。ゆんちゃんのおかげで、主は変わったって」
「それは、風間さんが――」
「違う。その前から変わって来てた。それは、主を見てきたワタシが保障する」
だから――と、結は強く言い放つ。
「主を信じろ!」
きっぱりと言い切られて、ゆりはふと附に落ちた。自分は、雪村に信じると言いながら、彼の事を信頼していなかったのだと。
あんなに必死で解決策を見出そうとしている雪村を、自分は傷つけるところだったのだ。
ゆりは罪悪感と、恥じ入る思いから苦笑を零した。
「うん。信じるよ」
今度は、心の底から断言できた。
「ありがとう。結」
結がいてくれて良かった――ゆりは心の底から、そう思った。
「うん」
結は誇らしげに大きく頷いて、ゆりに手を差し出した。ゆりはその手を取って、優しく握る。二人は見詰め合って、にこっと笑った。
「じゃ、帰るぞ」
「うん。――あ、ちょっと待って」
ゆりは、引かれる手を止めて、ナイフを拾い上げた。ナイフをポケットにしまう。その時、指に微かに何かが当たった。
「なんだろう?」
ポケットの奥を弄ると、二つの鍵が出てきた。
ナイフは今まで反対側のポケットに入っていたので、鍵がある事に気付かなかったのだ。
「これって……確か、リンゼさん達が倒れる前に、伝使竜が運んできた鍵だ」
あの後すぐに呼び出しがかかり、無造作にポケットに突っ込んだのをすっかり忘れていた。
「この鍵って、なんなんだろう?」
首を捻った瞬間、ゆりの網膜の裏に何かが浮かんだ。それは、一瞬の残影のようだった。女が走る一瞬の絵。
そして次の瞬間、次々に走馬灯のように映像が流れ込んできた。それは、鍵の持つ記憶だった。
「ゆんちゃん?」
結が怪訝に問いかけた時にはすでに、ゆりはこの鍵の全てを理解していた。
この鍵が生まれてから、代々に受け継がれ、そして手放された瞬間まで、鮮明に。
「アンリさんは、私達のために――」
ゆりはそれ以上続ける事が出来なかった。涙を流して、鍵を握り締める。
「ありがとう。――ごめんなさい」
「……どうしたんだ。ゆんちゃん」
結は、ゆりを心配して覗き込む。ゆりはかぶりを振った。
「急ごう。雪村くんに知らせなくちゃ」