私の中におっさん(魔王)がいる。~雪村の章~
* * *
坂の上まで上りきろうと思ったのだが、坂の上には大きな屋敷が建っていて、門番が少し離れた距離にいたゆりを鋭く睨み付けたので、ゆりは上りきらずにすごすごと退散した。
「そんなに睨まなくっても良いじゃない」
きっとあの上まで上りきれば町を一望出来ただろう、と残念に思いながらゆりはメインストリートへと下りた。
そろそろ帰ろうかと思ったとき、前方の人波が、少しだけ左右に寄り始めた。
(なんだろう?)
怪訝に思ったが、ゆりも彼らに習って少し右に寄ると、前の方からドラゴンが歩いてくるのが見えた。それは先程見かけた朱喰鳥竜だった。
ゆりの横を悠々と歩く馬車ならぬ、竜車を眺めると、クーペの中には先程の紳士が乗っていた。そのまま目で追っていくと、竜車は宝石店の前で止まり、御者がドアを開けて、紳士が中から降りて来た。
それを見届けて、向き直ろうとしたときだった。
前方から驚きに満ちた声が上がると同時に、甲高い声で誰かが叫んだ。
「泥棒!」
ゆりの横を、男がにやついた表情を浮かべながら駆け抜けていった。ゆりは呆然と男を見送って、そしてはっと気がついた。
「あ、え、泥棒!?」
どこか焦るような気持ちで男の背を目で追うと、疾風のような速さで青年が駆けて行き、竜車の手前で泥棒の男に飛び掛った。
泥棒は当然のごとく抵抗し、青年ともみくちゃになり、そこに数人が加勢に入ったものだから、あっという間に乱闘騒ぎになってしまった。
どうしようかとわたわたと慌てている間に、甲高い馬の嘶きに似た咆哮が上がり、朱喰鳥竜が興奮して強く地面を蹴立てた。
乱闘騒ぎの中、竜車の朱喰鳥竜の脚を誰かが蹴ってしまったのか、殴ってしまったのかして、混乱したのだろう。
朱喰鳥竜はクーペを乗せたまま、暴走して走り出した。
「キャー!」
悲鳴が洪水のようにそこかしこから沸きあがり、壁に押し付けるように避けたり、走り出したりする人波の中で、ゆりは戸惑いながら走り出そうとしたが、誰かに肩を押されて道の中央に投げ出されてしまった。
「きゃ!」
小さく悲鳴を上げて、地面にぶつけた肩をさすりながら顔を上げると、目前まで朱喰鳥竜が迫って来ていた。
「うそ……」
絶望して呟いたが、体が動かず、朱喰鳥竜の足裏がゆりの視界を覆った。
(――轢かれる!)
全身の筋肉を硬直させて目を瞑った瞬間、腕を強く掴まれた。脛を地面にこすりつけるようにして体が浮き、何か硬いものにぶつかった。
「?」
衝撃はあったが、腕に微かに違和感があるだけで、どこにも痛みがないことをゆりは不審に思って、恐る恐る目を開いた。
「え……」
そこにあった微笑みに、ゆりの胸は掴まれたような息苦しさを覚えた。
「……風間さん」
「大丈夫ですか?」
にこりと笑んだ彼の姿に、またゆりの胸は切なさを覚える。
ゆりは風間の胸の中にいた。彼がゆりを引っ張って助け、その反動で風間の胸にぶつかり、抱き込まれるような格好になっていたのだ。
風間は、ぱっと体を離した。
「どうして、ここに――」
夢心地で言いかけて、ゆりは口をつぐんだ。
風間が何かに気づいた表情をし、ゆりの脚を見つめたからだ。
「脚、ケガをしてしまいましたね。すみません」
「え? あ、いえ。大丈夫ですよ」
ゆりは見られる気恥ずかしさから、脚を隠すように擦った。
右の脛が地面にすられて引っ掻き傷のようになっていた。
感じていなかった痛みが、自覚した途端ヒリヒリとした痛みとしてやってきたが、ゆりは苦笑しながら手を振った。
それを風間はどことなく呆れたように笑って、ゆりの前に手を差し伸べた。
「歩けますか?」
「あ、はい……」
ゆりはおずおずとその手を取った。風間はその手を軽く引いて、ゆりの膝裏に腕を回した。
「きゃ!」
お姫様抱っこをされたゆりは、驚いて目を丸くし、風間は爽やかな笑みをゆりへ送った。
胸のときめきに天にまで昇りそうなゆりに一瞥くれて、風間は視線を街の中に戻した。
「近くに病院があるので、一応診てもらいましょう」
「はい」
胸をときめかせて答えた途端、脛の擦り傷は何事もなかったように治り、絹のようなまっさらな脚に戻ってしまった。
風間はそれを見届けて、ゆりを地面に降ろした。
「必要ありませんでしたね」
風間はくすっと笑う。ゆりは苦笑を返して肩を落とした。
(ちくしょー。魔王のばかやろー!)