私の中におっさん(魔王)がいる。~雪村の章~
* * *
門が勢い良く開き、ゆりは鋭い瞳で辺りを見回す。すると、ぼうっとしながら歩く雪村を捉えた。彼は階段を下りようとしていた。
ゆりは声をかけずに走り出した。声をかければまた逃げられるからだ。
しかし、その足音に気がついて雪村は振り返った。
「げっ」
小さく悲鳴を上げて、階段を駆け下りる。
「逃げるな!」
ゆりは叫んだが、鬼のような形相の女が迫ってきたら、きっと雪村でなくとも逃げ出すだろう。
ぐんっと距離を引き離されたが、今度はゆりはめげなかった。
階段を一気に駆け下りる。大通りを駆け下りていく雪村を視界から離さない。
(ここまで来れば、大丈夫だよな)
雪村は少しだけスピードを緩めて、後ろを振り返った。すると、距離は離れているが、人波を掻き分けて走るゆりが視界に映った。
(なんでまだ追って来てんだよ~!)
雪村はスピードを上げようとしたが、その瞬間、脇道から朱喰鳥竜がぬっと顔を出した。
「うわっ!」
仰天してのけぞり、急ブレーキを掛けて止まる。一瞬、ブファっとドラゴンの首の毛に顔が埋まったが、皮膚までは届かなかったため顔を傷める事はなかった。
朱喰鳥竜は悠々と雪村を一瞥して、何事もなかったように優雅に歩き出す。雪村はどこか唖然としてドラゴンが歩いて行くさまを見送ったが、はたと気づいて振り返ると、眉間にシワを寄せたゆりがもう間近に迫っていた。
「うわ、ヤバ!」
雪村は呟いて道を逸れる。朱喰鳥竜が来た方向へと走り出した。
南地区に繋がっている広い通りが視界に映る。その緩やかな坂を駆け上がりながら、雪村は振り返った。
先程よりも引き離したが、確実にゆりはすぐそこに迫っていた。
雪村は更にスピードを上げる。
「待ちなさいよ!」
ゆりは叫んで坂を駆け上がる。息が絶え絶えで苦しい。脚が張って、攣りそうになる。もう足を止めてしまいたい――誘惑が過ぎるが、ゆりは足を動かし続けた。
すると、雪村が僅かに遠ざかった。
(なんなのよ。なんで逃げるのよ……!)
不安がゆりの胸を渦巻き、掻き乱す。
だが、ゆりはそれを払拭して、雪村を見据えた。
雪村は裏路地へと曲がる。入り組んだ路地を行かれれば、逃がしてしまう。ゆりは焦りながら後に続いた。もしかしたら、もう見えなくなっているかも知れない――だが、そんな不安は的中しなかった。
雪村は足を止めていた。何やらもたついているように見える。
彼の前には、幼い少年が三人立っていた。
「ちょっと退いて! ごめん! 急いでるから!」
「え~!? 遊ぼうよ!」
「いつも遊んでくれるだろー!」
「今はダメなんだよ!」
(ナイス! 子供達!)
心の中で称賛を送り、ゆりは雪村に手を伸ばした。
雪村は振り返って、僅かに声をあげ、子供達を軽く押しのけて走り出す。
ゆりはその腕を捕り損ねた。
「待て!」
ゆりは叫んで、追いすがる。懸命に伸ばした手が、今度は雪村の袖を捉えた。ぐんっと力いっぱい引っ張って、振り返った雪村の胸板を押して壁に叩きつけた。
「ケホッ!」
雪村が一瞬咳き込んで、戸惑う表情を見せた。
ゆりは息が続かず、俯いたまま肩で息をする。ゼェゼェ鳴る胸が苦しい。だが、押し付けた手は外さなかった。
「ゲホッ、ゴホッ!」
「だ、大丈夫?」
「――大、丈夫? そんなわけ、ないでしょ……」
絶え絶えで言って、ゆりは顔を上げた。汗が跳ねて、地面に落ちる。
ゆりは雪村を強い瞳で見据えた。雪村は、ぼっと火が灯ったように顔を赤らめて、視線を逸らす。
「なんで、逃げるの?」
「……えっと」
雪村は躊躇って、赤くなった頬を隠すように口元に手を当てた。
「俺、は、恥ずかしくて……えっと、ごめん」
「……はあ!?」
尻つぼみに小さくなっていった雪村の声を掻き消すように、ゆりは呆気にとられて声高に叫んだ。
「恥ずかしいって……何それ……」
力が抜けて、ゆりはその場でずるずると座り込んだ。
「あの、えっと、大丈夫?」
雪村は、心配と戸惑いから声をかけながら、手を差し伸べた。
ゆりはその手を思い切り叩き落とす。
「大丈夫じゃないよ! バカ!」
「え、ごめ――」
「嫌われたのかと思って、不安になったじゃん」
ほっとして片手で顔を覆ったゆりに、雪村は慌てて手を振った。
「き、嫌いになんてならないよ! むしろ、俺が嫌われたんじゃないかとか不安になって逃げ出しちゃったくらいで……」
ゆりに普通に接しないといけないと分かってはいたが、いざ本人を目の前にすると、動悸に襲われ、不安に駆られた。不恰好な告白をしてしまった気恥ずかしさと相まって、雪村は知らず知らずのうちに踵を返していた。
それが『逃げ』の始まりだったのだ。一度そうしてしまったら、もう後はなし崩しだった。
「俺、谷中さんが、俺のこと友達だとしか思ってないことも知ってるし。だからさ、その、俺の言った事は忘れてくれて構わないから」
目線を合わせず、苦笑しながら言った雪村をゆりはムッとして見返した。立ち上がって、もう一度雪村の胸に手をやって、壁際に追いやる。
「な、なに?」
「なにじゃないよ。私の気持ち勝手に決めつけないで!」
「ご、ごめん」
雪村を捕まえてから初めて雪村はゆりを真正面から見据えた。
ゆりはその目を見返す。
「私、雪村くんに避けられて、すっごい不安になった」
「うん。ごめん」
「本当に分かってる?」
「……えっと、うん」
曖昧に頷いた雪村をゆりは睨み付けた。
「絶対分かってない」
「わ、分かってるよ。いきなり友達に避けられたら傷つくってことだろ。俺だってそれくらい――」
「違う。ほら、分かってない」
ゆりは、あからさまにため息をついて見せた。
それを見て、雪村は申し訳ない気持ちで瞳を伏せる。
「ごめん。多分、風間だったらこんなふうにはなってないよな」
「は? なんでそこで風間さんが出てくるの?」
「え!? えっと……風間はしっかりしてるし、エスコートとかも完璧だろうし――」
風間がゆりを好きだと思っている雪村は、風間の気持ちを暴露するわけにもいかずに、しどろもどろに言い訳を放ったが、ぽつりと本音が漏れた。
「告白ももっと、あんなんじゃなくて、さ」
もしもゆりに告白するのなら、もっとロマンチックな場所で、かっこ良く告白出来たらと、雪村は考えていたのだ。
案外ロマンチストな雪村だったが、ゆりはカチンと来てぶっきら棒に訊いた。
「あんなって何?」
「だから、もっと、ロマンチックな。女の子がもっと喜ぶみたいなさ」
苦笑を浮かべながら答えた雪村に、ゆりは哀しげな瞳を送った。
「……私が嬉しくないってなんで思うの?」
「え?」
「なんで不安になったのか、やっぱり分かってないじゃない」
戸惑う瞳を向けた雪村の胸から、ゆりは手を放した。
「もう一度、言って」
「え?」
「嘘じゃないなら、もう一回、雪村くんの気持ち聞かせて」
不安げな表情を浮かべたゆりを見て、雪村はこくんと頷いた。
「……うん」
緊張から大きく息を吐いて、雪村は真剣な瞳でゆりを見つめる。
頬が僅かに紅潮し、ドクドクと胸が高鳴った。口を開けたが、喉の奥で言葉が詰まったように感じられ、雪村はいったん、口を閉じて唾をのみこんだ。
「谷中さん。俺は、谷中さんのことが好きです」
うるさいくらいに心音が耳にまで届く。雪村はそれには構わず、思い切り、気持ちを吐き出した。
「初めて逢った時から、キミが空から舞い降りた日から、ずっと大好きだ。世界一、好きだ。俺、頼りないけど、絶対、谷中さんをいっぱい笑わすから、幸せにするから、俺と、付き合って下さい!」
顔が熱く、頭がのぼせたようにクラクラとする。雪村は、伏目がちに俯いた。
(心臓が、爆発しそうだ)
雪村は無意識にぎゅっと心臓を押さえつける。その手に、柔らかい手のひらが乗せられた。ぱっと顔を上げると、ゆりと目が合った。
ゆりは雪村の手を握り、にこりと微笑む。
「はい」
「……え?」
呆然と呟いた雪村に、ゆりはこくんと頷いて見せた。
「はい。よろしくお願いします」
「……え? え!?」
雪村は戸惑って目をぱちくりとさせる。
「え、嘘だろ」
「なんで嘘なのよ。私、雪村くんのこと好きだよ。大好きだよ」
「……マジで?」
「マジ」
こくんと頷いたゆりを見て、雪村は両手を勢い良く掲げた。
「やったー!」
子供のようにはしゃいだ雪村を見て、ゆりはくすくすと笑う。
そこに、
「やったな! 雪村!」
「よっ! カップル成立~!」
「ヒューヒュー!」
と囃し立てる声が聞こえてきて、二人は驚いて振り返った。
そこには、雪村を足止めしていた子供達がいた。
「お前ら、まだ居たのか!」
照れて顔を真っ赤にした雪村を見て、子供達はわははと笑って手をパンパンとリズミカルに叩いた。
「キース! キース!」
「チューしろよー!」
「うっせー! とっとと家帰れ!」
囃し立てる子供達に突進して行くと、子供達はきゃーきゃーと笑い転げながら走り去って行った。
「ったく!」
雪村は戻ってくると、ゆりを見て照れたように笑んだ。
「えっと……帰ろっか?」
「うん」
ゆりは差し出された手を握って、歩き出そうとする雪村を見つめた。
「どうしたの?」
「ん? しなくて良いのかなって思って」
「何を?」
きょとんとした雪村を見つめて、ゆりは微笑を浮かべた。
「――キス」
「は!?」
ボッと顔に火が灯った雪村に、ゆりは悪戯っぽい笑みを向ける。
「嘘です」
「な――なんだよ。ひっでぇ!」
「散々逃げ回った罰よ」
脱力しながら嘆いた雪村をくすくすと笑って、ゆりは雪村を見つめた。
本気で残念がっている彼を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられ、同時に温かくてたまらなくなった。
ゆりは、不意に雪村の肩に手をかける。
背伸びをして、唇を雪村の頬に軽く押し当てた。
「~~~っ!」
雪村は言葉をなくして、真っ赤になった顔を隠し、ゆりもまた、つられて頬を赤らめるのだった。