私の中におっさん(魔王)がいる。~花野井の章~
* * *
皇王子だけ「さようなら」や「達者で」ではなく「またな」だったな。
私は、屋敷に囲まれた、思い出深いこの中庭で、ふとそんな事を考えた。
月が、屋敷の屋根から覗いて、青白い光を中庭に注いでいた。
「ゆりちゃん。じゃ、準備は良い?」
月鵬さんがどこか、哀しげに訊ねて、私は強く頷いた。
「はい」
私は、地面に書かれた魔法陣のようなものの中に入った。
魔方陣は、なんとなく見覚えがあるような気がする。でも、全然思い出せない。どこで見たんだったかなぁ?
頭を捻っていると、突然誰かに抱きつかれた。
「きゃあ!」
「うわああん! 寂しいわぁ!」
叫ぶと同時に、泣き喚く声が頭上から振る。
「鉄次さん……」
「やっぱり帰るの止めない? ずっと一緒に暮らしましょうよ!」
鉄次さんは号泣しながら、そうねだった。困惑したけど、嬉しかった。私も、帰りたくない気持ちはあったから。
私だってみんなと離れるのは寂しい。
思わずちらりと、視線が花野井さんを追った。
花野井さんは、いつもと変わらないようすだった。
(少しくらい、寂しがってくれたって良いのに……)
「おい! 鉄次、いい加減にしろ!」
咎めるように言って、亮さんが私から鉄次さんを引き離した。
亮さんが、ちらっと私を見て、照れたように顔を逸らした。
それを見て、私は昨夜のことを思い出した。
昨夜、私が寝ようとしていたら、窓から変な物音がして、ヒヤッとした。
一瞬、鈴音さんに襲われた出来事が頭に過ぎった。
窓から人の手が見えたときは、さすがに悲鳴をあげそうになったけど、
「俺だ!」
という密やかな声に冷静になった。
亮さんが窓から顔を出して、安心したのと同時に、不信感が湧いた。
こんな時間になんの用だろう、しかもなんで窓から入ってくるの? 警戒してると、亮さんは、ぶっきら棒に、
「色々と、あたって、すまなかった」
そう言って、下げるか下げないかくらいに微妙な位置で、頭を下げた。
そして眼鏡をずり上げて、誰にも言うなよと口止めしてさっさと去っていった。
もちろん、窓から。
いかにも亮さんらしいなと、お腹を抱えて笑ってしまった。
そのことを思い出して、頬が歪みそうになる。
(おっと、いけない)
亮さんがキッと私を睨んできたので、私は顔を引き締めた。
「じゃあ、行くわよ」
月鵬さんが確認するように言って、みんなが頷いた。円を囲むようにして立つ。それぞれが取り出した刃物で、指を軽く切ると、血液を地面へ垂らした。
月鵬さんが、大きく息を吸って、集中した。
「聖女帰還(アリア・キカ)」
強く唱えると、呪陣が金色に光った。
その光は、一つ一つが粒のようで、幻想的で綺麗だった。まるで、蛍か、雪のよう。その光の粒が天に還るように、ゆっくりと上って行き、大きな光の柱になった。
光は次第に薄く、色を失くしていく。それと同時に、私の体が透けて行った。
私は、花野井さんを見つめた。
彼も私を見据えていた。
いつもとかわらない、私の頭を撫でる時の、優しい眼差しで。
私は泣くのをぐっと堪えた。
笑おうと思ったんだ。
花野井さんや、みんなに覚えていてもらうのは、泣き顔よりも笑った顔が良かった。楽しかった。みんなといて楽しかった――そう伝えたかった。
やがて、視界が眩い光に覆われて、何も見えなくなった。
そのとき、
「じゃあな〝ゆり〟」
まるで、愛しい人の名前を呼ぶような、柔らかい声が私の耳に届いた。
薄れ行く意識の中で、その声だけが私の心を捉えていた。