私の中におっさん(魔王)がいる。~花野井の章~
その明朗な声は鉄次によるものだった。鉄次は、「でしょ? けんちゃん」と、続けた。
花野井は、含むように苦笑して頷いた。
「嬢ちゃんが本当はどう思ってるかは知らねえ。だが、帰りたがってたのは事実だろ? 嬢ちゃんはまだ若けぇから、恋はいつでもできるよ。俺じゃなくても良いんだ。安全な国で、命を狙われる事も、誰かを殺すこともなく、誰か好きな奴が出来て、そいつと幸せになってくれれば、それで良いだろ?」
穏やかな表情で語る花野井を月鵬は一瞬驚いた眼で見て、表情を崩した。
「そんなの、かっこつけすぎなのよ……」
涙が、堪えきれずに流れ出す。頬を伝う雫を袖で拭おうとした月鵬に、ぶっきら棒にハンカチが差し出された。
それは亮からだった。
月鵬は、不謹慎だと思いつつも嬉しさを禁じえず、渡されたハンカチを受け取った。
「お前、そんなに泣く奴だったっけ?」
「カシラの変わりに泣いてるんです!」
からかうような花野井の声音に、月鵬はムキになって返した。
「まったく! せっかく手に入れた封魔書が、まさか帰すために使われる事になるなんて!」
すっかり調子を戻した月鵬が小言をもらすと、黙って見ていた廉璃が声を上げた。
「そうですよ。よくあの三条一族から盗めましたね!」
「ふふん! それはぁ、この優秀なわたくしが忍び込んだんですもの。当然なのです!」
威張る姪砂の横で、男女数人が引きつり笑いをしていた。姪砂が忍び込む時にサポートした仲間だろう。
彼らの肩に、亮がぽんと手を置いた。
「ご苦労様」
姪砂のお守りで苦労が耐えないらしい彼らは、労いの言葉が相当嬉しかったのか、亮をキラキラした表情で見つめ返した。
「まあ、姪砂の活躍もあるけど、けんちゃんの勘が当たったのよねぇ」
「と、言いますと?」
廉璃の問いに、鉄次は花野井を見た。
花野井は短く頷く。
「先日、美章に功歩が攻め入った事は知ってるわね?」
「ええ。皇王子達が話し合ってました」
「美章の軍に被害が多かったみたいなんだけど、美章軍は功歩軍を追い払ったのね。功歩国は、それを一部が勝手に起こした事として声明を出したの。その中に、三条の者もいたってわけ。まあ、情報が不鮮明な部分はあるっちゃあるんだけど。当然、三条家内でも混乱は生じるでしょ。その混乱に乗じて、姪砂に忍び込んでもらって複写(コピー)してきたってわけ」
「三条の館はもぬけの空もいいとこでしたわ!」
姪砂が誇らしげに言って、鉄次の説明に補足した。
「ま、そういう事だ。黒田、毛利、それぞれに、魔王は帰還したと密書を送っておけ」
「はい」
頷く月鵬だったが、何故帰しただの、花野井の責任だ、などと、両名は煩いだろうなと予想して、月鵬は憂鬱なため息をついた。
「じゃ、解散」
花野井はそう打ち切って、ちらりと月を見上げた。
一瞬だけ、追憶の瞳をして、館の中へと足を踏み入れた。
「それにしても、疲れたわ。疲労感半端ない」
「人間一人を異世界とやらに飛ばしたんだ。疲れないわけがないだろ。半端な能力者だったら疲れただけじゃ済まないんだからな」
「あら。いつの間にゆりちゃんが異世界から来たって認めたの?」
「……うるさい」
やいのやいの言いながら、月鵬と亮が花野井の後に続いて館へ戻っていった。
「あのぅ。お姉様」
「なぁに、姪砂?」
こそっと寄ってきた姪砂に、鉄次は伸びをしかけた腕を止めた。
「あの巻物ってなんだったのですか? ほら、お姉様に言われて複写(コピー)したやつですわ。あれって、手紙みたいでしたよね。しかも、将軍にあてたみたいな感じでしたわ」
訝しがった姪砂に、鉄次は悪戯っぽい笑みを投げかけた。
「内緒よ。内緒!」
「何か企んでらっしゃるんですか?」
姪砂の試すような口ぶりに、鉄次は、わざと驚いた。
「あらやだ、秘め事って言ってよ。そっちの方がロマンチックでしょ?」
「エロティックに聞こえますわよぉ?」
「それはあんたがエロいから、そう聞こえるのよ」
「……!」
鉄次をからかおうとした姪砂を返り討ちにして、鉄次は楽しそうに歩き出した。
その後ろで、姪砂は顔を真っ赤にして絶句していた。
「わたくし……そんなはしたないことっ、したことございません!」
大きな満月が降り注ぐ中庭には、真っ赤な頬で憤慨する姪砂がその場に残された。