私の中におっさん(魔王)がいる。~花野井の章~
「こんな夜分に、女が自室に誘うなんて、ひとつしかないじゃないですか」
ということは、ここは鈴音さんの部屋なんだ。
(でも、なんで私が鈴音さんの部屋に?)
混乱する私の目の前で、鈴音さんはアニキに抱きついた。
(――やめて! こんなの、見たくない!)
思わず目を瞑ろうとした時だった。目を瞑るその刹那に、キラリと光る閃光が私の網膜に焼きついた。
アニキに抱きついている、彼女が後ろから振りかざしている物。――ナイフだ。
『やめてぇ!』
必死になって叫んだ。
猿轡で声にならないことは分かっていたけど、叫ばずにはいられなかった。
声にならない叫びを合図にしたかのように、鈴音さんはアニキの背中に向って勢い良くナイフを振り下ろした。
「俺、女殺すの嫌なんだよな」
(――え?)
突如、静かな声がして、次の瞬間、鈴音さんが宙を舞っていた。
赤い鮮血を撒き散らし、弧を描くように宙を舞った鈴音さんは、空中で一回転して地面に着地した。
カンテラの灯だけじゃ、良く見えないけど、鈴音さんはどうやら顔を怪我したみたいだった。
だけど、鈴音さんは血だらけになった顔を気にもせず、ナイフを構えた。
(なに、どうなってるの?)
「すごいですね。ただ蹴り上げただけで、ここまで……」
「手加減した。言ったろ、女殺すの嫌なんだよ」
「ふっ」と、鈴音さんは嘲笑的な笑みをこぼし、血だらけの顔を腕で拭った。
「殺すのは嫌でも、顔を抉るのは良いんですか? 今ので、頬の肉が削げましたよ。左目も潰れちゃって……これじゃあ仕事にならないわ」
「なら、退いてくれるか?」
「まさか!」
鈴音さんが不適に笑んで、身構えた。
アニキは、小さくため息をついた。
「これでも最小限の力なんだぜ? おとなしく捕まっちゃくれねぇか。な、鈴音?」
アニキはどこか哀しげに笑んで、問いかけた。
その問い掛けに、鈴音さんはゆっくりと首を横に振った。
「そうか……それじゃあ――」
アニキが言いかけた、その瞬間。
「――!」
全身の筋肉が突然引き攣れて、喉の奥がキュッと閉まった。
声にならない痛みが全身に駆け巡り、息が出来ない。
(――苦しい。痛い!)
激しく痙攣する体が、幾度も押入れを揺らす。
「誰だ!?」
アニキが声を荒げたときには、痛みが終わっていた。
一瞬の出来事だった。
ぶわっと汗が噴出し、苦しくて、苦しくて、肩で息をする。
痙攣が治まらずに、全身が小さく震えていた。
「さあ、誰でしょうねぇ?」
鈴音さんが嘲るように笑い、ゆっくりと押入れに近づいてきた。
アニキは怪訝な表情をしつつ、身構えた。
戸が開く音がしたけど、意識が朦朧として、一瞬視界がぼやけた。
「うっ!」
髪を引っ張り上げられて、そのまま地面に落とされた。
顎を打って、鈍痛が走る。
「……嬢ちゃん」
「そう。貴方の大切なお嬢さん」
ぐったりと脱力する私を、アニキは驚きを隠せないように見つめていた。
(アニキ、助けて)
「てめえ、嬢ちゃんに何をした!?」