私の中におっさん(魔王)がいる。~花野井の章~
「……?」
でも、しばらくしてもなんの音も聞こえない。
断末魔の叫びも、首の骨の折れる音も。鈴音さんが下ろされる音も……。
私は、意を決して目を開けた。
見上げると、そこにはそのままの光景があった。
アニキが鈴音さんの首に手をかけ、持ち上げ、鈴音さんが足をばたつかせて、もがいている。
(――生きてる)
私は、ほっと息を漏らした。
そこに、責めるような声が飛んできた。
「ちょっと! なんで殺そうとしてるんですか、カシラ!」
「月鵬か」
首だけで振り返ると、ドアの前に月鵬さんが立っていた。
明かりは何も持ってなかったけど、目が暗さになれて、かろうじて月鵬さんだとわかった。
そこに、月の光が差し込んできた。
雲間から見えた月は、私達を照らし出した。光に反射して、キラキラと光る細い糸のようなものが見えた。
それは、アニキの左腕に絡みつき、月鵬さんへと繋がっていた。
よく見ると、月鵬さんの手を通して、もっと先に糸は繋がっていた。髪だ。月鵬さんの髪の毛が、糸のように伸び、アニキの腕を捕らえていた。
「邪魔するんじゃねぇよ」
鬱陶しそうにアニキが言うと、嫌味ったらしく、月鵬さんは愚痴をこぼした。
「なにが邪魔するんじゃねぇよですか。邪魔は貴方の行動の方でしょ。大丈夫、大丈夫、生きて捕まえる。とか余裕ぶっこいてたのはどこのどなたです?」
「――チッ! 分かったよ。分かりましたよ!」
アニキはイラついたように舌打ちをして、鈴音さんを投げ飛ばした。
軽く腕を振っただけのように見えたのに、鈴音さんは数メートル先の壁に勢い良く激突した。
「ガハッ!」
壁に衝突した反動で、鈴音さんは前のめりに倒れこんだ。
「ううっ!」
全身を強く打った彼女は、それでも立ち上がろうと、足に力を入れようとした。
それを月鵬さんは許さなかった。
金糸の髪がすっと伸び、鈴音さんの体を拘束した。
「うっ!」
巻きついた髪は、鈴音さんの体を縛り上げて、ぷちっと小さな音を立ててちぎれ、残りの髪はするすると月鵬さんに戻っていった。
「来てみて正解でしたね」
月鵬さんは、呆れたように言いながら、私達のほうへ歩いてくる。
アニキは、しゃがんで私の拘束に手を伸ばした。びくっと、無意識に私は反応した。反射的に顔を背ける。
怖かった。
誰かに暴力を振るわれて、死ぬかもしれない目に遭って。
でも、その怖さじゃない。
私は、アニキが怖かった。
人を殺そうとする、アニキが怖かった。
頭では、分かった気になっていた。
将軍という立場で、三年前まで戦争をしていて、アニキは元山賊で。
誰かを殺したことも、殺されそうになったこともあったんだろうなとは、思ってた。
だけど、実際にそんな場面に遭遇すると、アニキが別次元の人間に思えた。
私の知っている彼は、私の知らない恐ろしい生き物に思えた。
「……ごめんな。怖かったろ」
不意の、優しい声音に振り返る。
アニキは、すごく、悲しい顔をしていた。
情けなくて、泣きそうな……。
「――ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
ぽつりと、小さく声が零れた。
自分の声が聞こえたことに驚いて、口元を触るといつの間にか猿轡が解かれていた。足と腕の拘束をアニキが解いて、手を差し伸べた。
そこにはもう、悲しい顔はなかった。
にこっと笑まれた、優しい表情がそこにあるだけだった。
「ごめんなさい」
思わず飛び出した謝罪に、アニキは驚いた表情で苦笑した。
「なんで嬢ちゃんが謝るんだよ。俺が謝るとこだろ。危険な目に遭わせちまったんだから」
急に、涙がどっとあふれ出てきた。
緊張や恐怖からの解放からか、罪悪感からなのかは分からなかったけど、涙が溢れ出して止まらない。
違うの――言葉にならない代わりに、大きくかぶりを振った。
アニキを傷つけちゃった。
私を助けてくれた。自分の体を傷つけてまで、守ろうとしてくれた。
そんなアニキを、怖いと思うなんて。
違う生き物のように思ったなんて……。
罪悪感でいっぱいの私を、アニキはそっと抱きしめてくれた。
ぽんぽんと、頭をなでる、優しくて、たくましい手のひら。
私は小さい子供のころのように、大きな安心感に包まれた。