私の中におっさん(魔王)がいる。~風間の章~
* * *
大きな月が出ていた。
始まりの日に似た、大きな満月。
町外れの丘の上には、一人の男が立っていた。
見晴らしの良い丘には緑よりも土色が多く、乾燥した風が砂埃を巻き上げる。
灰色の髪が月明かりに映え、白銀のように輝いた。
風間は哀しげに、そして愛しい眼で丘に眠るゆりを見つめた。
ゆりは、土の上に描かれた呪陣の中心にいた。
その呪陣は、大きさこそ違うが、屋敷に描かれていた呪陣だった。
風に吹かれてゆりの髪が揺れる。風間は、しゃがみ込んでその髪を手に取った。何かを言いたい。でも、何も出てこない。ただ、罪悪感が胸を突くだけ。
彼はゆりの性格からして、自分が貞衣と晴を殺したと知れば、彼女は怒り、風間を嫌いになると踏んだ。
風間にとっては一族と雪村が全てで、他の誰が傷つこうが死のうがどうでもよかった。風間は静かに目を閉じる、ゆりの髪を離した。
「誤算だったのは……」
風間は切なげに笑った。
「貴女が、とても優しい子だったってことだ」
予想外だった。ゆりが、自分を責め、病み、食欲を無くしたことは。
なにを話しかけても答えず、どこを見ているのかも分からない。
風間は、急に怖くなった。
あんなに恐怖を覚えたことは、生まれてこのかたなかった。数多の戦場を駆け、それなりの死闘も演じてきたが、ここまで恐ろしくなったことはなかった。
ゆりがこのままだったらどうしようか。
ゆりが死んでしまったらどうしようか。
他の者など、どうでも良かったはずなのに。
毎日毎日そんなことを考え、ゆりのそばを離れられなかった。
だから、ゆりが正気を取り戻したときは、本当に嬉しくて思わず涙が零れてしまったほどだった。
自分の涙を拭ったのは、十数年ぶりだった。風間は立ち上がって、丘の上ですやすやと眠るゆりを見つめる。
本当は、このままゆりを連れて逃げてしまいたかった。
けれど、そんなことは出来ない。風間に出来るはずがない。彼には支えなければならないものがある。
突然、風間は崩れ落ちるように膝をついた。
心が砕かれたように痛む。
いっそ、嫌われてしまった方がマシだった。
憎んで、嫌って、軽蔑して、自分以外の男と幸せになって――。そして、彼女の中の魔王を手にして……。
その方が、マシだっただろうか。こんなに、苦しいのなら。
嫌われていても、憎まれても、誰かと笑い合っていても、もう少しだけ彼女と一緒にいられるのなら。
その方が、マシだろうか。
二度と逢えない距離に身を置くくらいなら。
しかし、そんなことは出来そうにない。魔王を手に入れるために、ゆりを傷つけることは彼にはもう出来ない。
風間は引き裂かれそうな胸を押さえつけ、泣き出したくなる目尻に力を込める。
「貴女に逢う前の私に戻れたら良いのに」
振り絞るような痛々しい声音は、叫びのように、静寂にやけに響く。自分の心を一身に占める彼女との記憶を、消してしまいたいとさえ思う。
風間は眠るゆりの頬をなぞった。
ゆりの手を取る。
いつもはめていた赤い指輪がなくなっていた。
指は、どことなく寂しそうだ。
「……さようなら」
風間は無理に笑みを作る。
頬から、ゆりの頭に手のひらをずらす。風間は深呼吸をした。
僅かに、淡い光が手のひらから発せられ、歪な四角形がゆりの頭を包み込む。
「結界封印」
風間が呪文を唱えると、歪な四角形は急速に収縮し、ゆりの頭の中へ消えた。風間は、物悲しい瞳をゆりへ向ける。だが、その表情はどことなく優しい。
そこに、丘を踏む音が聞こえた。
大勢の足音が響き、男が岩の間から顔を出した。
屈強な男の後ろに、ぞろぞろと十数人の男女が現れた。
「お待ちしていました」
風間が立ち上がり、彼らを迎え入れる。
「よう兄ちゃん。本当に謝礼は弾むんだな?」
「もちろんです」
にこりと風間は笑った。
その心は、フィルターが張られたように男を拒絶している。
「皆様能力者ですね?」
「おう。さっき酒場で頼まれたとおり能力者のみを集めたぜ!」
「では、私の指示通りにして下さい」
風間がそう告げて、円の中心で眠るゆりの周りを囲むようにして立たせた。ナイフを回し、それぞれの指を自分たちで薄く切っていく。僅かに流れ出る血液を地面へ落とした。
「聖女帰還(アリア・キカ)」
呟くように風間が唱えると、呪陣が金色に光った。
まるで光の粒が天に還るように、ゆっくりと上って行き、やがて大きな光の柱となった。
おおっ――と、驚嘆の声が上がり、十数人が見守る中、光は次第に薄く、色を失くしていく。
誰もが頭上を見上げる中、風間だけは、地上のゆりを哀しげに見つめた。
光が色を失くして行くのと同時に、ゆりの体も透けて行った。
やがて光は消え、地上のどこにもゆりの姿はなかった。
「さようなら……ゆり」
呟いた声は風に乗って夜の空に消えた。
――― ――― ―――
――竜王書より――。
北丁(ほくちょう)六百五十年。
瞑国・弦韻(ゲンイン)、東の丘にて黄金色の光の柱が上がり、直後に燃えるような赤い光を確認す。
東の丘に、小規模ながら焼け焦げた円形の大地が残り、時を同じくして、弦韻に住む十数人の男女の所在が不明となる。
魔王の兆し、以降確認なし。
――竜王書簡・招々。